山深いこの地に、精緻な技巧をこらした彫刻の祭り屋台。
そこにはある人物とある植物が深く関わっていた。
北村喜代松(天保4年~明治39年)
鬼無里ふるさと資料館に展示された祭り屋台と神楽の見事な彫刻。
それはすべて北村喜代松が彫ったものです。
越後市振村(現青海町)の宮大工・建部家に生まれた喜代松は、
18歳ころから鬼無里を訪れ、諏訪神社屋台、鬼無里神社屋台、
加茂神社の神楽などの製作に加わりました。
宮大工と大工の違いは、彫刻技術です。
腕の良い宮大工は一流の彫刻師であり、建部家は彫刻を得意とし、
才に恵まれた喜代松は生粋の彫刻師に鍛えられました。
鬼無里神社屋台や三島神社屋台の籠彫り、
生気を感じさせる龍・鳳凰などの彫り物がその技の冴えを物語ります。
(鬼無里観光協会資料より転用)
喜代松がなぜ鬼無里に来たかは謎だそうです。
ただ間違いなく、この喜代松が居なければ、
後世に残るような祭り屋台はできなかったのです。
つぎにある植物とは。
標高がもっとも低い瀬戸で649M、鬼無里支所は678Mです。
天候の大きく左右された江戸時代の稲作は大変なことでした。
そこで人々は蕎麦、粟、稗(ひえ)を栽培して旱魃(干ばつ)や冷害に備え、
また木炭、麻糸、鬼無里紙の副業に励みました。
麻は文禄年間(安土桃山時代)頃から栽培され、
鬼無里産麻糸は青金引麻の名で善光寺町・松代城下を初め
江戸へも売られて行きました。
当初は麻そのものを売っていましたが、
明和年間(1765年)吉郎右衛門が江戸で麻糸を加工して
畳糸にする技法を覚えて帰り、里に製法を広めました。
明治初年、寒冷積雪地の不利を逆に寒晒しとして活用する手法が考案され、
光沢の良い寒晒し畳糸は氷糸の商標で高値売買されたので、
当時の鬼無里村では95%の農家が麻を栽培し、麻全生産量の半分が、
畳糸に加工されて出荷されました。
(鬼無里観光協会資料より転用)
当時、仕事のない冬場は出稼ぎがあたりまえであったが、
この地域では麻の加工という換金性の高い仕事があったため、
出稼ぎにはほとんど出なくて済んだという。
この地の人々は裕福であった。神に感謝し、信仰厚く、寄進することが、
当然のこととして行われていたのかもしれない。
みょうに納得して、次の宿泊地“白馬”に向かいます。
(つづく)
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すぐ近くまでいらしていたんですね。
この記事近くの場所に、友人が古民家購入して休日はそちらで悠々と渓流釣り三昧の生活をしています。
今年の冬はいかがでしょうか?今年こそは北アルプス露天風呂ツアーにご一緒しましょう。
今年こそはおじゃましますよ^^。
怪我も完治しましたから^^。
あとはしみちゃん次第です^^;。