時代は1970年代後半から80年代後半の話です。
ある意味、この方がいたから、私のスノーモビルライフがあるのかも知れません。
Yさん、20代にあるスキー場にスキーに行ったとき、上から黒いかたまりが飛び跳ねながら猛スピードで下りて来るのを見た。熊かと思ったが、それは黒いウエアを着て黒いそりに乗った人間だった。それが初めて見るスノーモビルだった。
時速50kmもでてなかったと思うけれども、その当時、雪の上をあんなに早く走るものはなかった。えらく興味を持って、乗せてくれるかと聞いたら気軽にOKしてくれた。
走らせてみたらかなり早い。2輪や4輪に飽き足らなくなっていたYさんは、一も二もなく飛びついた。
近くにバイクと同時にスノーモビルを扱っている店を見つけ1台購入、だれもやったことのないスポーツなのでしばらくはひとりで遊んでいた。
あるとき、菅平にスノーモビルをやってる人達が集まるというので行ってみると、スノーモビルの関東大会というものであった。
まだ受け付けていると言われたので、みんなと走りたくて早速申し込んだ。
さて、生まれて初めてのレースは惨憺たるもので、一回で予選敗退。まわりのみんなの速さにまったくついていけなかった。
ライディングは他の選手より優れていたが運転技術というよりはスノーモビル自体の性能が劣っていたのだ。
一回戦敗退で暇を持て余したYさん、片っ端から停めてあるモビルを見て回った。レースに出場しているマシンと自分のモビルの違いをすぐに理解した。元々、2輪や4輪をよく改造していたから、終わって家へ引き返してからは見よう見まねで改造を加えて練習した。
何週間か後にまた大会があるというので、改造したマシンを試すべくエントリー。今度は予選を勝ち抜いて2位になってしまった。これが大きなきっかけで、この機械物の変えてやれば変えてやっただけの結果がでるスノーモビルレースに一気にのめり込んでいった。
そのころにヤマハのSさんやTさんと知り合い、最初は気にも留められなかったが、順位をどんどん上げられるようになって認められるようになり、30数年たったいま、スノーモビルの販売も含めて最良のパートナーたちである。
金曜日に仕事が終わるとトラックにスノーモビルを積み福島、青森、北海道と転戦した。
転戦といってもレース会場からレース会場へ移動するのではなく、板金の仕事を抱えて、週末のたびに各会場まで自分で運転して、そのままレースに出るという繰り返しだった。
さすがに北海道のレースはシーズン1回、青函連絡船に乗ってヘロヘロになって、それでも上位になって帰って来た。
仲間が増え、徐々に○○レーシング のかたちが見えてきた。そのころ、10数年後に全日本チャンピオンとなる小学生がスノーモビルライダーと成るべく、入ってくるのだが・・・。
続きはまた後日アップさせていただきます。
76.0
ある意味、この方がいたから、私のスノーモビルライフがあるのかも知れません。
Yさん、20代にあるスキー場にスキーに行ったとき、上から黒いかたまりが飛び跳ねながら猛スピードで下りて来るのを見た。熊かと思ったが、それは黒いウエアを着て黒いそりに乗った人間だった。それが初めて見るスノーモビルだった。
時速50kmもでてなかったと思うけれども、その当時、雪の上をあんなに早く走るものはなかった。えらく興味を持って、乗せてくれるかと聞いたら気軽にOKしてくれた。
走らせてみたらかなり早い。2輪や4輪に飽き足らなくなっていたYさんは、一も二もなく飛びついた。
近くにバイクと同時にスノーモビルを扱っている店を見つけ1台購入、だれもやったことのないスポーツなのでしばらくはひとりで遊んでいた。
あるとき、菅平にスノーモビルをやってる人達が集まるというので行ってみると、スノーモビルの関東大会というものであった。
まだ受け付けていると言われたので、みんなと走りたくて早速申し込んだ。
さて、生まれて初めてのレースは惨憺たるもので、一回で予選敗退。まわりのみんなの速さにまったくついていけなかった。
ライディングは他の選手より優れていたが運転技術というよりはスノーモビル自体の性能が劣っていたのだ。
一回戦敗退で暇を持て余したYさん、片っ端から停めてあるモビルを見て回った。レースに出場しているマシンと自分のモビルの違いをすぐに理解した。元々、2輪や4輪をよく改造していたから、終わって家へ引き返してからは見よう見まねで改造を加えて練習した。
何週間か後にまた大会があるというので、改造したマシンを試すべくエントリー。今度は予選を勝ち抜いて2位になってしまった。これが大きなきっかけで、この機械物の変えてやれば変えてやっただけの結果がでるスノーモビルレースに一気にのめり込んでいった。
そのころにヤマハのSさんやTさんと知り合い、最初は気にも留められなかったが、順位をどんどん上げられるようになって認められるようになり、30数年たったいま、スノーモビルの販売も含めて最良のパートナーたちである。
金曜日に仕事が終わるとトラックにスノーモビルを積み福島、青森、北海道と転戦した。
転戦といってもレース会場からレース会場へ移動するのではなく、板金の仕事を抱えて、週末のたびに各会場まで自分で運転して、そのままレースに出るという繰り返しだった。
さすがに北海道のレースはシーズン1回、青函連絡船に乗ってヘロヘロになって、それでも上位になって帰って来た。
仲間が増え、徐々に○○レーシング のかたちが見えてきた。そのころ、10数年後に全日本チャンピオンとなる小学生がスノーモビルライダーと成るべく、入ってくるのだが・・・。
続きはまた後日アップさせていただきます。
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