【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

胃癌日記  3.スキルス胃癌からの生還。ファミリーや友らと精一杯自分らしく生きる(1)

2019-02-23 18:05:47 | 楽しく元気に『闘病』日記

胃癌日記  3.スキルス胃癌からの生還。ファミリーや友らと精一杯自分らしく生きる(1)

退院後2011年の大晦日まで

退院後、体力の回復や気持ちのモチベーションを高める為に、毎日の歩きを13,000歩以上、年賀状作り、孫のTが自転車に乗れるよう自転車トラウマの払拭と練習などを日課とした。年賀状も29日には全て出し終えた。30日には既に冬期休暇に入って誰もいない職場に行って、溜まった仕事のチェックや勤怠の入力、私物(洗濯物)の持ち帰りをした。

 大晦日には孫の自転車練習を午前と午後の2回、孫は自転車トラウマも克服し、かなり乗れるようになってきており少し公道も走らせている。面白くて仕方が無いようだ。夕方には日課になっている神社へ往復5~6キロメートルの散歩をし、本殿では手を合わせ癌が深刻な状況に至らなかったことを感謝し、これからの健康と家族の平和を祈る。

 夜、紅白歌合戦を見、今年は鐘を撞きには行かなかったが裏の蓮華寺の除夜の鐘を聞きつつ,波乱万丈の2011年の年の終わりの余韻に浸った。

 

 退院後1ヶ月(2012年1月26日)まで

 1月26日も仕事で多忙な1日だった。当面の仕事で開催するフォーラムの担当責任者で、委託先や関連の企業等との応対にも忙殺される。しかも相変わらず午前、午後と分食を摂っている。

 1月9日(月)は手術後1ヶ月で、成人の日で休日ではあったがY先生の診察があった。9時40分にS病院外科外来に行き、血液検査の後診察。血液検査の結果はカリウムが少し高いが増えていない、GOT・GPTが引き続き少し高いということで、かかりつけのN先生に受診し、様子を観察することとなった。カリウムが高いのは、手術との因果関係は無い、腎臓も悪くないで原因が分からないとのこと。特に何ともしようがない。多忙なうちに退院後1ヶ月が経過した。

 

退院後2ヶ月(2012年2月26日)まで

 2012年2月26日(日)は、私は仕事で昨日から高松へ来ていた。結構気を遣いながらの仕事で、午後8時終了。

 本日からは、手術前と同じ食生活で良いという『お墨付き』を貰っている。さりとて、胃の3分の2が無いわけで、やはり躊躇する。そんなことで、朝食はホテルのうどん、午前間食は家から持ってきたカロリーの高いクッキー、昼食はスパゲティナポリタン、午後間食はなし、そして仕事終了後の夕食はお好み焼き。夜食にホテルの『夜鳴きそば』を食べた。

 多忙な中、退院後2箇月が過ぎた。

 

 退院後3ヶ月(2012年3月26日)まで

 2012年3月3日(土)は、連れ合いの強い指示もあり、退院後2回目の血液検査をすることとなった。通常の血液検査セットに加え、胃切除による影響を見るための血中の鉄、退院時に高かったカリウム、γ-GTPをオプションとして加えた。3月9日(金)に結果を聞く。殆どが正常範囲に戻り、3ヶ月以上断酒の効果もあってかγ-GTPも随分低くなり、カリウム値も若干高いとはいえ低くなった。まだ手術の影響が残るのか、血液学的検査で若干低い値があったり、中性脂肪などが若干高かったりするが、食生活も改善しておりこれから全体として、だんだんと良くなっていくだろう。

 3月10日(土)には「支援フォーラム」、17日(土)にはシンポジウムに参加したり、18日(日)にはS先生著作集編集委員会に参加するなど、仕事やボランティアにもかなり「復帰」を果たしてきている。

 20日の勤務の代休である3月21日(水)と振替休日の22日を利用して、姉Hが2月に転居した鎌倉に、連れ合いと兄の3人で自家用車を駆って1泊2日で慰問・激励に行った。ドア・トゥー・ドアで片道約7時間45分かかる長丁場を私一人で往復運転したが、結果あまり疲れることも無く、快調な旅だった。

 さらに、3月25日(日)は職場のアルペンサークルで亀岡の牛松山(標高636m)ハイキングに行った。標高はさほど高くない里山だが、何しろ半年ぶりくらいのハイキングで、しかも全身麻酔の手術後初めての山だ。体力には若干不安が残っている。

 亀岡駅から歩き出し、登山口から入ってしばらく登っていると、リーダーが

「今日の行程は3時間」

と言い、一瞬ビビッた。普通私の山行のペースでいうと、標高差500mを登るのに40分~1時間、1000m上るのには2時間前後かかる。一体どんなに深い山か、登山靴でなくウォーキングシューズをはいてきたことは甘かったと思い、

「3時間もかかるの?」

と、強いリアクションをすると、リーダーは、

「そのリアクションは面白い。」

と言う。よく聞くと登って降りて、ゴールまでの時間が3時間とのこと。安心したやら、気が抜けたやら。天候は、晴れとの予報だが、登っていると雪が降ったりして、結構寒い。私は上着のジャンパーも着ておらず、少し寒かった。それほど厳しくも無く、快適に頂上へ。頂上で昼食後下山。降り道は少し急で、しかもだらだら続いている。リズム良く降りればいいのだが、集団で歩くとどうしても歩調が合わなくなる。しかしそれでもたいしたトラブルも無く、全員無事下山。

 当日はサークルの「退職者を祝う会」で、17時からは京都市内で宴会もある。ゴールの亀岡駅で私は仲間と離れ、行ったことのない亀山城へ一人で散策に行った。山の頂上からは森と荘厳な雰囲気の建物が見えていた。

 時折雪や霙のあいにくの天気だったが、城内に入るころには晴れてきた。場内に入ると歩道には玉砂利が敷かれよく手入れされている。後でわかったが、亀山城は宗教法人大本教が敷地ごと取得し、現在大本教の『聖地』となっていて、天守閣跡は『聖域』で立ち入ることが出来ない。要するに私有地なのだ。しかし城内の散策は自由なようなので、ゆっくりと見て廻った。

 亀山城散策後、京都市内に戻り、堺町通り錦にある銭湯の『錦湯』で汗を流した。先にサークル仲間の二人が入っていた。先輩が、

 「手術の跡はきれいになってきてるね。」

 と言ってきた。汗を流した後、宴会に合流。私はアルコール抜き。手術後酒は止めた。

 ハイキングは体力的にどうかなと思っていたが、ほとんど疲れもなく、良いリフレッシュになった。ただ、大腿前部に『身が入り』、痛くなってきて、28日の水曜日くらいまで悩まされた。退院後3ヶ月が過ぎ、順調に回復!!

 

 退院後4ヶ月(2012年4月26日まで)

 12月に校正し、退院後に校了した小論が、RJ誌の「ブラック企業特集」に掲載されたのを契機に、NPO法人「P」の2氏が3月28日(水)の午前、職場に来訪された。若者の就労実態や、構造的とも言える若者に対する人格破壊・人権破壊についての情報の交換や、今後の連携について話し合った。体調の回復に伴い、社会貢献活動にも行動範囲を拡げていきたいと思う。

3月30日には異動にともなう職場での送別会兼2011年度打上会が開催された。出て行く人を激励し、日頃の仕事を慰労する楽しい宴会であったが、私は手術を契機に酒を止めたので、おいしい料理にソフトドリンクであった。宴会の趣意とは別に、仲間たちは私の体調を気遣ってくれているのがひしひしと伝わる。

4月7日(土)は、大学時代の学部同期の仲間というか同志達との花見会が、昼過ぎから丸太町橋下る鴨川右岸河川敷で12人の参加で盛大に開催された。ぼちぼち鬼籍に入る仲間もいるが、とりあえずは元気な再開にお互い癒しあったり減らず口をたたいたりで、にぎやかな宴となった。私は、「癌日記」と「R誌のブラック企業特集の小論のコピー」と「なかなか手ごわかった八瀬大原の大尾山」を「近況報告3点セット」で持参し、仲間たちに配る。にぎやかな宴会はいいのだが、途中で雲行きが怪しくなり、さらには花冷え以上に寒いのとで、ロイヤルホテルのコーヒーラウンジに場所を移動し、さらに「飲み足りない」とのことで、河原町のアサヒビアホールへと移動した。ここでも私はソフトドリンク。にぎやかに語り合い、惜しみつつ17時20分に解散。10月の再開を誓う。

翌8日(日)は職場の仲間12人と東山ハイキング。9時30分に銀閣寺門前に集合し10時に出発。若手は30分で大文字の火床に到着。私は仲間の一人が3歳の女の子を連れてきており、そのサポートでゆっくり登り、10時50分に火床着。みんな待っていてくれて、写真を撮ったりする。親子は此処でUターンし、他の一行は如意が嶽を目指して11時に出発。11時25分に頂上三角点到着。さて頂上広場でサプライズ。なんと仲間の一人の大先輩が「下界」から冷えたシャンペンをクーラーに入れて担ぎ上げてくれて、乾杯となった。参加メンバーは圧倒的に若手女性職員で、まあ盛り上がったことこの上ない。キャアキャア言いながらシャンペンを酌み交わし、賑やかなことこの上ない。大先輩にはそのお心遣いに深く謝謝。30分の休憩というか宴会の後東山京都一蹴トレイルを南禅寺に向かう。此処からは私が先頭。わいわいがやがや言いながら、12時45分に南禅寺インクライン橋に到着。小休止や三門での記念撮影の後、昼食場所の「奥丹」へ向かう。「奥丹」では火床で別れた親子も再び合流し、少し待った後1時40分頃、にぎやかに湯豆腐の昼食開始。3時には全員満腹で納得して、希望者9人で哲学の道を銀閣寺へと、少し早い桜を愛でに散策。人ごみの中をのんびり歩き、3時40分には、銀閣寺の参道へと戻った。私はここでソフトクリームを食べに行く女性職員と別れ、再び加茂川河川敷を歩いて四条河原町へと戻り、帰路についた。本日歩行35,296歩であった。心身ともにリフレッシュ。

足や膝や太腿などへのダメージは、あっけないほどまったく無し。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   (大文字山火床からの京都市内遠望)        (哲学の道の桜並木)

 

 4月14日は、学生時代の旧友とホテルグランヴィアで昼に会う。職場の近況や今後の展望、お互いの生き方や人生等について語り合う。ここでも近況報告代わりに、「癌日記」「R誌」「大尾山」の3点セットを渡す。

 15日は歩いて茨木市中央図書館へ行き、勉強。しばらくは土日は「民法」「業法」等の勉強、その他の日は、学会発表に向けた勉強を進めようと決める。当面は余命のことに煩わされることが無くなったら、俄然時間がもったいなく、足りなく思うようになってきた。

 

 退院後5ヶ月(2012年5月26日まで)

 5月1日はメーデーに参加。「晴れた5月の♪♪♪」という訳にも行かずうす曇。それでも、今年はなかなか暖かくならなかったが、少しは日差しが強くなってきたか。ゴールデンウィークは特に遠出もせず、孫の棚を組み立てたり、兄宅へ「ご機嫌伺い」に行ったりした。最終日の6日の日曜日は、連れ合いと二人の孫を連れて琵琶湖にバーべキューに行ったが、天気予報に違い雨が上がるどころか、風も強く吹き出し、風雨。真野浜で上の孫はブラックバス釣をしながらのバーベキューの予定だったが、道の駅「琵琶湖大橋」で様子見の挙句、風雨も収まりそうも無く、Uターンに決定。

 Uターンして、淀川の仁和寺大橋下の河川敷でバーベキューをすることにした。孫たちはブイブイ文句を言いながらも、バーベキューをパクパク食べ、上の孫は淀川でブラックバス釣。しばらく頑張ったが、根がかりで大事な釣り針2本を無くし、釣果もゼロで不機嫌に環をかける。

 仕事のほうは相変わらず多忙ながら順調。9日にはY高校のロングホームルームの時間に進路懇談会で就職コースの生徒たち相手に講演。「みんな夢を自分の手に掴めよ」とメッセージ。

 11日には職場の歓送迎会を大々的に開催。相変わらず酒は飲まないので、ご馳走を美味しく頂くだけ。といっても気をつけないと食べ過ぎるとお腹が重くなり、大変苦しくなってくる。まあ、だいたいペースは分かってきたので、当日は快適に頂いた。

 異動で転入してきた職員のオン・ザ・ジョブトレーニングの講師をしたり、雑誌の座談会に出席したり、その原稿を校正したりで、仕事のほうは多忙。

 5月19日の土曜日はNクリニックの通院日で、術後半年、退院後5ヶ月を目途の血液検査をした。更にはその結果をもとに他の総合病院にCTの予約を入れることとなっている。

 5月20日の日曜日は、前から計画していた「一目百万本の山つつじ」を見に、連れ合いと孫Tを連れて大和葛城山へハイキングに出かけた。当日は朝は快晴というわけではなく少し薄曇であったが、朝6時44分発の電車に乗って富田林へ。富田林駅からバスに乗ったが、途中道路両側の路上駐車のため大渋滞でバスが立ち往生。目的地の水越峠まで辿り着けず、かなり手前から登山口まで歩く。9時30分に登山口から登りだし、大勢の登山客で賑わう山道を行き10時45分山頂着。コース地図では1時間45分くらいのコースを1時間15分で登った。小学校4年生の孫は元気一杯。

 山頂は高原のようで、山一面を薄紅色で染め抜く山つつじは本当に見事。東のほうを見やれば、谷を挟んで金剛山の頂上が目の前に広がる。山頂でおにぎりを食べ、少し散策の後12時45分に登りと反対方向の北尾根から下山開始。なかなか『山らしい』いい道を辿り、13時50分ゴールのロープウェイ上り口駅に到着。バスで近鉄御所駅へ、そこから近鉄、地下鉄、阪急と乗り継いで、16時10分に、我が家へ帰着。(大和葛城山ハイキング記録は、別途まとめる予定)

 5月21日は金環日食。観測に申し分のない快晴で、出勤前に道路に出て連れ合い、孫とともに雄大な天体ショーを観察。木漏れ日が道路に映り針穴カメラの原理で、たくさんの金環の太陽が道路に映っている。次回に見られるのは25年後とのこと。生きているやらいないやら。

 5月26日の土曜日は、午前中にNクリニックに、先週の血液検査とCTの予約の結果を聞きに行った。血液検査の結果は、すこぶる良好。血液学的検査で2項目がほんの僅か値が低いのと、気にしているカリウムがほんの僅か高い以外すべて正常値。腫瘍マーカーも正常で、なんとγ‐GPTにいたっては知りうる限りでは30年以上振りに正常値に戻った。半年にわたって酒を止めた『成果』が現れてきた。大変嬉しく満足であるが、酒に浸り続けたわが半生を振返り、ほんのちょっぴり感傷的にもなる。

 総合病院での腹部CTの検査は、6月5日火曜日の11時30分と決まった。

 

退院後半年(2012年6月26日まで)

 2012年6月26日、退院から半年が過ぎた。仕事にも順調に復帰し、体力もかなり回復してきている。この1ヶ月もいろんなことがあった。

 6月5日の火曜日は、退院後初めてのCT撮影を総合病院で受けた。胃癌の手術後今後は年2回のCTと血液検査、年1回の胃カメラを指示され、退院後NクリニックのN先生にお世話になって術後ケアをしている。ただ、正直なところ胃癌の発見、手術、その後のケアと本当に順調に回復してきているのが、かえって「どんでん返し」のように何か起きるのではないかといった、漠然としたもやもやとした不安があるのだ。癌が再発してこないだろうか、見つからなかった転移が発症してはこないだろうか、そういった思いは心の隅にあり、いつとも無くふと不安がよぎることが時々ある。

 さて、CT検査の当日は11時30分の予約となっており、仕事のほうは休みを取って10時40分に自宅を出発し、いつものように歩いて総合病院まで向かった。総合病院まで距離にして3Km以上ある。11時20分病院着で受付を済ませ、11時45分に検査開始。最新鋭の機械で撮影そのものは10分強で終わる。造影剤も使わず、何の「苦痛」もなくあっけなく終わった。CT撮影後30分ほど待たされた後、N先生のところへ持っていくように指示されて、フィルムと「所見」の入った手提げ袋を渡された。Nクリニックの診察時間の夕方までには時間があるので、フィルムと「所見」の入った手提げ袋を持ったまま回転寿司での昼食後中央図書館へ行く。中央図書館で継続している勉強や資料整備の後、午後4時50分に退出し、5時10分にNクリニックへ行く。

 

 「先生。総合病院へ行ってCTを取ってきました。」

 「ご苦労様でした。預かってきたものをください。」

 N先生はフィルムと「所見」を見て

 「大丈夫です。何もありません。」

 とのこと。また一つ関門を乗り越えてほっとしたのだが、相変わらず「本当に大丈夫だろうか」といった漠然とした不安も心の片隅に残る。

 6月26日までの1ヶ月の間にあった大きなイベントは、6月24日の日曜日の若いときの職場の懇親会。大学を卒業して始めて就職したT診療所の当時の職員のいわば『同窓会』。私にとってはもう40年も前のことになるが、当時は地域の保健・衛生、地域医療の推進や、労働災害・職業病の患者さん達の治療や職場復帰と自立へのサポートといった仕事に、それぞれが未熟な若者ではあったが、誇りと働き甲斐を持ち厳しい労働環境の中を頑張りぬいてきた。私にとっては社会人としての原点である。

当日は、当時の所長のH先生を中心に、医師、事務長、看護婦、理学療法士、薬剤師、ヘルパー、事務職員らが東は東京、西は香川県から総勢30名が京都のホテルに集まった。幹事のKさんによると、案内を出した人は全員参集したとのことであった。昔の仲間たちにとっては、それほど思い入れの深い職場だった。予断だが、私は学生時代からのアルバイトのときに、やはり看護婦の補助としてアルバイトに来ていた当時看護学生だった連れ合いと出会ったのもこのT診療所であり、その後結婚し、当日は連れ合いも参加した。

懇談では、厳しい労働環境の中でも、楽天的に明るく仕事に取り組んでいた昔のことを懐かしんだり、当日来られなかった仲間の話題となったり、近況といえば孫の話が中心。そんな楽しくも賑やかな話題が満載であったが、亡くなられた仲間を偲ぶこともあった。看護婦長であったSさんは肺癌で亡くなられ、看護婦のOさんは難病の末、最期は肺癌で亡くなられたことなど、それぞれ思い出を語り合った。当日、元気に出席していた仲間でも、H所長を始めI先生、N君、Sさん、そして私は癌体験者であり幸いにも存命している。『3人に1人は癌』などといわれているが、つくづく実感した。

賑やかなうちにお互いの健康を祈念し合い、再開を誓って午後3時に懇親会もお開きとなった。テラスで記念写真を写した後、私と連れ合いは東京へ帰るF君とともに地下鉄駅に向かった。懇親会のお開きが寂しくもあり、またの再開が心待ちでもある、そんな心境で家路へとついた。

 

もうすぐ夏休み。『生きている間に』自分のメモリアル登山のいわば『総集編』として、西穂高から槍ヶ岳までの縦走をしておきたい。その話を連れ合いにすると、にべも無くダメ出し。

「金がない。」

と、つれない返事だ。まあ、全身麻酔で胃切除の大手術をして半年やそこらで何を言っているのかといったところなのだろうけど、やはりあきらめきれないので、来年に置いておこう。その代わりと言ってはなんだが、今年は大峰山の弥山・八経ヶ岳(1915mで近畿地方最高峰)あたりか、石鎚山(四国最高峰)あたりにしておくか。

 

ほんの少しの憂いはありつつも、順調に健康・体力を回復しつつある退院後半年である。

 

 スキルス胃癌発見後1年目(2012年10月15日まで)

 まもなくスキルス胃癌発見から1年を迎える。2011年、薬剤ショックで逝った友人のSのお通夜の翌日、2011年10月15日が年に1回の胃カメラの定期健診だった。N先生の確かな慧眼で、ごく初期のスキルス胃癌を発見していただいて宣告され、私の人生は意識していたわけではないが、生きている営みが活発になり、生きている証を残そうと今までに無かった生き様を結果的にはしてきたようだ。これはある種、枯れ際に見事に花が咲くような「本能」のようなものかもしれない。

 「労旬」誌への寄稿と小論の掲載、高等学校綜合科での講演、「ネットワーク京都」誌での座談会での発言、2010年から継続している学会での2012年度の発表は、自分の問題意識を集大成したテーマで報告した。7月に入ると若者の就職状況の改善を目指して経営者・経済団体への申し入れと懇談を行い、職場ではケース・カンファレンスを取りまとめた。最近明らかに増えてきた読書量、結構充実したワーク・ライフ・バランス、等々が私の現況である。

 

1年前スキルス胃癌を発見した10月15日から退院後半年の間にも、いろんなことがあった。

7月1日には姉Hへの「陣中見舞」で鎌倉へ訪問した。6月30日22時大阪駅バスターミナル発横浜行きの夜行バスに乗る。明朝6時45分に横浜バスターミナル着で鎌倉へ。鎌倉の街を歩いてH宅へ向かう。途中ショッピングセンターで土産などを買い込み結局10時20分に到着。歴史を忍ばせる落ち着いた街を歩く結構な散歩でもあった。H宅では息子、つまり私の甥であるYとも合流し、久しぶりの再会に話が弾んだ。昼には鎌倉山近くにあるすばらしい庭を持つ料亭の檑亭(らいてい)にて3人でそば定食をいただく。姉宅から檑亭まではちょっとした山を越え、歩いて片道40分程度はかかる。結構な日差しの中、往復を歩いた姉は、年齢に比して脚は結構丈夫である。16時40分にまたの再会を約束して姉宅を後にした。途中甥宅に寄ってJR大船迄歩く。JR大船から横浜に戻り、再びバスターミナルから22時発の大阪BT行きの夜行バスに乗って帰路に着いた。結局この日は良く歩き回ったので、歩数計は28,821歩。

 7月2日は流石に長距離夜行バスでの朝帰りだったので仕事は休暇を取って、家に戻ってから小休止後午後には映画に出かけた。「一枚のめぐり合い」というアメリカ映画で、アフガンの戦場で一枚の写真を拾った兵士が、復員後PTSDに悩まされながらもその写真に写った女性を探す旅に出る・・・。ストーリーの背景の設定に戦争の悲惨さなど、メッセージを発信し丁寧に作ろうとする意図はわかるが、ストーリー特にエンディングが少し俗っぽくて物足りない気がした。これは私の感想。

 

 7月上旬には、若者の雇用状況を少しでも良くするために京都の経済団体・経営者団体への要請と懇談に参加した。この取り組みは幅広く労働組合が集まって行ったものだが、昨今の若者に対する、ハラスメントも有りの風当たりの強さが社会的・構造的にもなっている状況の中で、こういった取り組みは非常に大事なことだと思う。

 この懇談と要請に取組んで思ったことは、最近『若者の替わりはいくらでもいる』といった状況を背景に、若者の『使い捨て』『新卒切り』『内定辞退への追込み』『ハラスメント』などが横行しているが、実は『まともな会社』や『真面目な経営者』が大変多いということに大きな意味で安心感を持った。過労死やうつ病の発症をなくし、『何万人ものリストラ』をする企業が『決断』と言われ、もてはやされて株価が上がるような社会はおかしい。そう思っている会社や多くの経営者に触れて、良かったと思う。リストラによって『経費』が削減され利益が生じ配当が可能になる、だから株価が上昇するなどという、競馬の予想新聞の解説のようなロジックがまことしやかに言われるいわば退廃的な風潮に異議をとなえる、そういった企業や経営者の皆さんが、『哲学』や『理念』を持って日本経済の再構築に頑張っていただきたいと思う。

 

仕事のほうでは、私が呼びかけてケース・カンファレンスをスタートさせた。若手からベテランまで日頃の仕事を通じてのケーススタディをして、仕事のヒントを得たり自己研鑽に役立てばよいと思っている。これは私は退職まで続けようと、その後も誰かに引き継いでいって欲しいと思っている。

 7月上旬の終わりからは、例年のことだが仕事で地方の優良企業訪問がスタートした。この業務は私が担当責任であり、引き継いだ2年前からこの仕事の目的や成果検証、具体的には大いにメリットを生む仕組みづくりに取組んできた。今では多くの地方優良企業と相当深いネットワークを構築することに成功し、具体的な成果も挙げている。この業務・仕事も私の退職までには、より大きな成果を生み出せるような仕組みを作っておき、引き継いでいきたいと思っている。

 7月14日は、亡くなられた恩師のS先生の著作集出版記念の集い・シンポジウムを開催した。著作集の発刊には私も編集委員として参加し、S先生のゼミ卒業生で社会人としての視点から、いろんな意見や思いを述べさせていただき、少なくない部分で私の意見も取り入れられている。また、校正作業にも連れ合いの応援も得て参加し、私だけでなく福祉の現場の実践者、労働組合、ゼミ卒業生、S先生の理念や生きてきた姿に薫陶を受けた人たち、多くの学識者等々が本当に手作りで作ってきた著作集である。また、この集い・シンポジウムの開催に向けてホームページを更新し学部卒業生に広く呼びかけた。結果80名以上の参加があり、これに関わってきた人たちや、これから新自由主義に対置しS理論の今日的な実践を目指す若手等の確信になったと思う。

 7月28日は学会での長いお付き合いの有るY女史の『出版をお祝いする会』に出席する。Y女史は社会人として仕事の傍ら大学院に通い、修士を経て博士課程で研鑽を積んでいる。今回出版した本は、自らの研究の集大成を博士論文として纏め、それを出版されたということである。彼女の利発な聡明さと頑張りは、今後チャンスがあれば研究職の道を歩むのかどうか分からないが、この一作では終わることなく、更に世に出て行くのだろうと思う。その若さとバイタリティを少し羨ましく思う。

 

 7月にはもう1本映画を見た。『臨場』という映画で、鑑識で死体検案をする警察官がストーリーの主人公。凶悪殺人犯が精神障害と偽装して無罪になっている不条理に、犯罪者を私的に抹殺する法医学者と鑑識警察官との絡みのストーリーが面白く、また内野聖陽の泥臭い演技が良かった。

 

 8月に入ると仕事のほうは『夏休み』モードに入ってくる。今年の夏休みのイベントは、前半がファミリーキャンプ、後半が胃癌の手術後初めての『本番』に近い登山。『本番に近い登山』というのは、実は以前から私のいわばチャレンジ登山のまとめとして、体が動けなくなるまでに西穂高岳から奥穂高岳までの縦走を目指していたのだが、流石に今年は全身麻酔でしかも胃の3分の2を切除した後7ヶ月やそこらで無理だろう、と言うことになり、それではということで近畿地方最高峰の八経ヶ岳、弥山に登山することになったということ。

 さて、キャンプのほうは8月4日から6日まで2泊3日で、ほぼ毎年行っている琵琶湖のマキノサニービーチに出かけた。今年のメンバーは連れ合いと中学3年、小学校4年の孫と私の4人。孫たちの母親である長女は仕事が休めず欠席となった。下の孫は大喜びで、魚採りや虫取りやらに期待を馳せていた。上の孫は受験もあり何かと難しい年頃ではあるが、魚釣が大の趣味で今回のキャンプはバス釣りに皮算用をしている様子。

 8月4日は朝6時半に起きて準備した荷物を車に運び込み8時15分に出発。いつものことだが湖西道路の雄琴ランプの渋滞に巻き込まれたが、11時35分にマキノ知内浜到着。本日マキノでは『ふるさと祭』や花火大会のイベントがあるとのことでキャンプ場は超満員だが、わがファミリーは予約してあったキャンプサイトに孫たちも力を出して皆でテントを設営した。うな丼の昼食を食べた後孫たちは早速バス釣に泳ぎに。

夕方まで遊んで17時ごろからバーべキューの準備を始め、18時15分にバーべキュースタート。日頃家ではできないバーべキューに孫たちは大いに堪能したことだろう。20時からは『ふるさと祭り』の花火大会も始まった。かなり近いところ、海津大崎の方向で花火を打ち上げているが松林越しになってよく見えない。連れ合いと下の孫は良く見えるところを探しに浜辺のほうに行ってしまい、テントサイトは上の孫のYと私だけ。

「Y。向うの方で夜店が出ているし、ちょっと行こうか?」

と、上の孫を誘った。中学3年生で受験も控えておりストレスもあって難しい年頃だ。私も最近は殆ど話しもせず、よくないなあと思いながら話す機会を作ろうとしていた。Yはお決まりの科白で、

「なんか買うてくれる?」

「何が欲しい?」

「土産になるグッズ」

といったやりとりで、花火の打ち上げ地点の方向にある夜店の屋台に2人で出かけた。知内川の橋を渡り超満員の北浜のキャンプ場を通り抜けYのことを思っていた。入院のときに見舞いに来てくれた時の所作や、胃癌で入院することを言ったときには「じいちゃん、死んでしまうのか?」と心配げに聞いていたとのことや、他人との関わりではいつも気を遣う心優しい孫であることを思いながらいろんな話をした。私の病気のこと、子育ての苦労話や楽しかったこと、私の中学校や高校時代のこと

、連れ合いとのことや母親(長女)との思い出話等など。花火の打ち上げ地点はこの先の海津大崎の『付け根』の辺りのようだ。

 やがて夜店の場所まで来て、欲しいものを尋ねると最初はグッズ系のものを言っていたが、欲しいものがないと言って、かき氷になった。かき氷を食べながらキャンプサイトへの帰路もいろんな話をしながら歩いた。彼女のこと、結婚のこと子育てや家庭を持つと言うことと私の体験など。余り孫は話しに乗ってこないので、余計なことに彼女はいるのかなどと聞いてしまった。答えは予想通り、

 「興味ない」

 とのこと。私の悪い癖だが、話を聞きだそうと思って話を振る時に自分のことを中心に喋りすぎてしまう。相手にとって見れば『なんだこの人、余計なお世話だ』ということになって、コミュニケーションが途切れてしまう。それもあって、もともと孫は家の中では無口なせいか、あまり喋らなかった。私も『男同士』の話をもっとしたかったし、孫も本当は言いたいことは一杯あったんだろうな、と思うと反省。

本日孫は粘りに粘って釣果ブラックバス1匹。

 そんなことで、キャンプ初日は終了。満天の星空の下で就寝。

 

 (マキノふるさと祭りの花火大会)

                                                                                          

2日目、朝5時からYと一緒にバス釣り。一旦テントに戻ってパン、ハム、コーヒーの朝食後上の孫の希望で近所の在所に有る雑貨屋さんに行く。目的は釣具も売っていると言うことで、リールの物色。歩いて5分ほどの雑貨屋さんは、年配のおばさんが店番をしていた。孫はリールを熱心に見ている。

 「何か欲しいものはあるか?リールは高いからあかんけど。」

 「そしたら、ワームを買うて。」

 「ワームてルアーの疑似餌か?」

 「そうや」

 とのことで、ワームを買う。テントへの帰りに話をする。リールは商売っ気がないのか家の近所の釣具屋から比べると、めちゃくちゃ安い、欲しかったとのこと。欲しいものは何でも買い与えてもいけないし上の孫もそのことは心得ているが、釣りの話をしているときは本当に活き活きしている。私も小・中学校の頃近所の淀川で、鮒、もろこやはす(はや)などを釣っていたが、はっきり言って釣りはあまり好きではない。道具も昔は手作りで、今の道具や釣り方たは全く異なっており、孫に参考になる話もできないのが少し心残り。

 昨夜と今朝の上の孫との『ふれあい』で、すこしコミュニケーションのきっかけは拡がった。

 昼ごはんは、インスタントラーメンと昨夜のバーべキューの残り、晩は結構本格的味わいで美味しかったインスタントカレー。上の孫の釣果はブルーギルほかで2匹。あまり大量には釣れないようだ。夜は浜辺で花火を楽しみ、満天の星の下就寝。ただ、夜中から明け方にかけて雨に降られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(海津大崎方面からのサンライズ)

 

 3日目の朝は心配していた雨も上がり、晴れてきそうでどうやらテントも乾きそう。孫たちは朝から釣りと泳ぎ。やがて上の孫も泳ぎだす。下の孫と悪ふざけをして、ひやひやする。こちらも一緒に琵琶湖に浸かり、孫たちと遊ぶ。日も晴れてきてテントも乾いてきたようで、午前中に撤収して帰り支度。本日上の孫の釣果はブラックバス1匹で、3日間合計4匹。目標の5匹には1匹届かなかった。孫の話では『魚がすれていてあまり食いつき寄らん』とのこと。管理事務所の前で、カブトムシを1匹100円で売っており、下の孫につがいで買った。土をほじくるとつがいでなく、雄3匹、雌1匹が入っていた。雄同士は喧嘩して死んでしまうので、2匹は帰る前に逃した。そんなことでばたばたしながら、昼前には荷物も積み込み楽しかったキャンプも終了し、キャンプ場を後にした。帰りは渋滞も無く順調に走り、家族亭で遅めの昼食を食べ、ヒマラヤで下の孫の登山用の靴と上の孫の偏光サングラス(つり用)を買う。その後家に帰り着き、夏休み前半のイベントであるファミリーキャンプは終了。