みなさんこんばんわ
言いだしっぺの○島君からの提供がないので、私が書きます
工藤慎也(ラグビー暦:磐城高校→茨城大学→ポパイ→ツクバリアンズ→アルパインSG 趣味:娘と筋トレ)
私の人生について振り返ります。長いので2回に分けて。今回はいわき→水戸
スポーツを愛する私は小学生のころは主にソフトボールをやってた。ポジションはキャッチャー
地区の子ども会でやってたので本格的ではなく、楽しくやってた。
小学生のころは親父がママさんバレーのコーチをしていたこともあって中学生になったらバレーボールをやり、将来はオリンピックに出ようと本気で思っていた。
しかし、中学生になって、バレー部の見学をしていたら、隣のバスケット部が楽しそうで結局バスケット部にはいっていた
うちのバスケ部は弱小チームで、地区大会で1回勝つぐらいだったため、市大会にもでれなかったけど、私はNBAを夢見て頑張っていた

そのころから私の才能である努力できることが実り、マイケル・ジョーダンに近づくことはできなかったけど、勉強ではかなり優秀(
)で、磐城高校に入学することができた
高校では、「やっぱり野球で甲子園
」と考えていたが、全国大会に限りなく近いラグビー部に入部した
これが見事に成功し、「一緒に全国制覇しよう
」と1年の時前の席だった野球部所属のイカツイ男を勧誘し(後に芋掘り名人と呼ばれた男)、2年、3年と花園の切符を手にした


しかも、3年の時は1回戦圧勝し、2回戦は当時東北NO1だった青森北に負けてしまったが、TVにいっぱい映って、いい気分になっていた
でも、努力できることが才能であった私は勉強もろくにせず、ラグビーと遊びに夢中であったため、いい大学には進学できず、3流国立大に行くこととなった。
ラグビー部はあったけど、全然強くないし、部員数もギリギリ。「俺が強くしてやる
」なんて思って入部したけど、・・・
小芝のような感じで、ラグビー・バイト・
・ゲロ・ラグビー・バイト・
・ゲロ・ラグビー・バイト・
・ゲロ 



飲み会の数も半端じゃなく、週に3回ぐらいは記憶がなかった
パチンコでは必ず景品をビールに換え、家には常にビールの箱が7~8箱あった


さらに、猫(ネネというオス猫)
と同居しており、酒とうんこの臭いで・・・
こんな状態でラグビーが強くなるはずはなかった


さらに、車を廃車にするほどの事故を起こし、1年留年し、親の反対を押し切ってパチンコ屋に就職。
パチンコ屋といっても、アミューズメントのグループ会社で、中身はかなりしっかりしている。
親の反対を押し切ってまで就職した理由は、若いうちにマネジメントさせてくれること。と、言っても50人ぐらいのバイトさんの管理をしたりすることだけど。
ほかにも、釘・設定・予算・ホールコントロール等等、たくさんやったし楽しかった
朝のラッシュに紛れて帰宅し、朝のニュースを見ながらビール飲んでいたのは懐かしいな
怖いおじさんに連れて行かれそうになったり、中国人のゴト師グループに国道沿いでボコボコにされ入院したこともあったけど、今の俺があるのはこの会社のおかげ。
社会の厳しさ、仕事の進め方、人間関係・・ いろいろ学びました。
でも、・・・長男であったこと、また、ラグビーへの思いは残っていたことから、3年で会社を退職することとしました
決定的なことは、就職していたころ所属していたクラブチーム(練習はしないで年に3回ぐらい試合だけ出てた)で、筑波大や茗渓学園OBが多く所属するツクバリアンズと試合をしたこと。
結果はボロ負けだけど、有名な選手はいるし、みんな楽しそうにラグビーやってるし、俺もまざりてー


(当時27歳) 親に、「俺つくばに行くから」 と電話して会社を辞め、水戸からつくばへ旅立ちました・・・
続く

言いだしっぺの○島君からの提供がないので、私が書きます


私の人生について振り返ります。長いので2回に分けて。今回はいわき→水戸

スポーツを愛する私は小学生のころは主にソフトボールをやってた。ポジションはキャッチャー

地区の子ども会でやってたので本格的ではなく、楽しくやってた。
小学生のころは親父がママさんバレーのコーチをしていたこともあって中学生になったらバレーボールをやり、将来はオリンピックに出ようと本気で思っていた。
しかし、中学生になって、バレー部の見学をしていたら、隣のバスケット部が楽しそうで結局バスケット部にはいっていた

うちのバスケ部は弱小チームで、地区大会で1回勝つぐらいだったため、市大会にもでれなかったけど、私はNBAを夢見て頑張っていた


そのころから私の才能である努力できることが実り、マイケル・ジョーダンに近づくことはできなかったけど、勉強ではかなり優秀(


高校では、「やっぱり野球で甲子園


これが見事に成功し、「一緒に全国制覇しよう




しかも、3年の時は1回戦圧勝し、2回戦は当時東北NO1だった青森北に負けてしまったが、TVにいっぱい映って、いい気分になっていた

でも、努力できることが才能であった私は勉強もろくにせず、ラグビーと遊びに夢中であったため、いい大学には進学できず、3流国立大に行くこととなった。
ラグビー部はあったけど、全然強くないし、部員数もギリギリ。「俺が強くしてやる

小芝のような感じで、ラグビー・バイト・







飲み会の数も半端じゃなく、週に3回ぐらいは記憶がなかった

パチンコでは必ず景品をビールに換え、家には常にビールの箱が7~8箱あった



さらに、猫(ネネというオス猫)

こんな状態でラグビーが強くなるはずはなかった



さらに、車を廃車にするほどの事故を起こし、1年留年し、親の反対を押し切ってパチンコ屋に就職。
パチンコ屋といっても、アミューズメントのグループ会社で、中身はかなりしっかりしている。
親の反対を押し切ってまで就職した理由は、若いうちにマネジメントさせてくれること。と、言っても50人ぐらいのバイトさんの管理をしたりすることだけど。
ほかにも、釘・設定・予算・ホールコントロール等等、たくさんやったし楽しかった

朝のラッシュに紛れて帰宅し、朝のニュースを見ながらビール飲んでいたのは懐かしいな

怖いおじさんに連れて行かれそうになったり、中国人のゴト師グループに国道沿いでボコボコにされ入院したこともあったけど、今の俺があるのはこの会社のおかげ。
社会の厳しさ、仕事の進め方、人間関係・・ いろいろ学びました。
でも、・・・長男であったこと、また、ラグビーへの思いは残っていたことから、3年で会社を退職することとしました

決定的なことは、就職していたころ所属していたクラブチーム(練習はしないで年に3回ぐらい試合だけ出てた)で、筑波大や茗渓学園OBが多く所属するツクバリアンズと試合をしたこと。
結果はボロ負けだけど、有名な選手はいるし、みんな楽しそうにラグビーやってるし、俺もまざりてー



(当時27歳) 親に、「俺つくばに行くから」 と電話して会社を辞め、水戸からつくばへ旅立ちました・・・
続く