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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

「我が衣に伏見の桃の雫せよ」 芭蕉

野ざらし紀行より、京都・伏見に因んだ一句。(^。^)

「我が衣に伏見の桃の雫せよ」 芭蕉

伏見の桃、、、ん?、、、そう言えば、京都には「伏見桃山」なる駅もあるし、「安土桃山時代」なんて呼んだりもする。(^。^)

芭蕉翁の頃から、「伏見の桃」は有名だったのね?!(◎_◎;)

伏見桃山の由来は、こんな感じです。(^-^)

織田信長、豊臣秀吉が権力の座にあった織豊(しょくほう)時代は、日本の歴史上で「安土桃山時代」(1573年から1603年)として知られています。
その「桃山」のいわれは、伏見城の廃城後、城址の山一帯に桃の木が植えられ、桃の花見の名所となったことにちなみます。
桃の花里として知られたのは100年ほどの間でしたが、歴史の重要地として「桃山」の名が広く響いたことから、後世に認識されるようになりました。
1912年(大正元年)、伏見城のあった古城山は明治天皇の陵墓となりました。「伏見桃山陵」として、現在も御陵への参拝、深々とした森林が広がる一帯の自然散策へと人々をいざなう名所となっています。
最寄りのJR奈良線「桃山」、近鉄京都線「桃山御陵前」、京阪本線「伏見桃山」などの駅名にも、「桃山」の名が冠されています。

他にも、こんな解説が、、、( ; _ ; )/~~~

秀吉が築いた最初の築城は文禄元年(1592)に始まっています。当初は茶会や宴会を催す隠居城として「指月の丘」に屋敷を造りましたが,その後すぐに本格的な城郭へと造り替えています。
延べ25万人を動員し, わずか5ヶ月で完成した城でしたが,慶長元年(1596)の大地震により倒壊,しかし,その10日後,「木幡山」に築城を始めました。
城内には舟入御殿や茶亭,茶道の学問所が設けられ、慶長3年になっても工事は続けられました。
同年8月秀吉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢」の辞世を残してこの世を去りました。

さらに、伏見城廃城の経過も、、、(^_^)

大坂の役後、元和9年(1623)、大坂城攻撃の拠点の役割を終えたとして、三代将軍徳川家光の将軍宣下の式を最後に、廃城となる。(家康・秀忠の将軍宣下もこの伏見城で行われている)
廃城が決定して2年後の寛永2年(1625)には、伏見城の廃城作業が完了し、城址は「伏見山」「古城山」などと呼ばれたが、延宝2年(1674)頃から桃林が生まれ「桃山」と呼ばれるようになった。
江戸時代は、伏見山から醍醐という花見コースがあったらしい。「桃山時代」や「桃山文化」という名称は明治以降のものでここから生まれている。

にゃるへそ!🐈‍⬛

この「伏見の桃」の句が掲載されている「野ざらし紀行」は、元禄二年(1689)の旅と言われているので、桃林が生まれた延宝2年(1674)頃から勘定すると、僅か15年後。「雫せよ」と詠まれたくらい、瑞々しく、まだ若い桃林だったのでしょうね。( ^_^)/~~~

(句意)
音に聞く伏見の桃の花よ。その美しい花の露を滴らせて、わたしの着物を染めてほしい。

「伏見西岸寺、任口上人に逢うて」との前詞がある。
任口上人とは西岸寺の第三世住職で、宝誉上人の俳号をもった談林の著名な俳人である。

伏見が桃の名産地であることをふまえ、盛りの桃の花を任口上人の高徳になぞらえて、その徳に浴したいとの心を寓した挨拶の句である。

にゃるへそ、アゲイン!🐈‍⬛🐈‍⬛

では、馬関より、桃に因んだ一句献上。( ^_^)/~~~

 「疫失せよ桃の魔力や陰陽師」 祖谷馬関

(註)写真は、伏見のシンボルとして、1964(昭和39年)年に建設された伏見桃山城(鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣)。
この城の南側に位置する明治天皇陵のあたりに、かつて豊臣秀吉が再建した伏見城の本丸があったとされている。
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