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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

藤原兼家の祖父は忠平/貞信公

藤原氏の深掘り、、、今日は、藤原道隆・道兼・道長という3人兄弟の父、「藤原兼家」に焦点を当ててみましょう。(^。^)

大河ドラマ「光る君へ」においては、藤原兼家は俳優の段田安則さんが演じていますね。(^-^)

ドラマでは、円融天皇に毒を盛ることを道兼に命じるなど様々な策謀を用いて、藤原家の隆盛を図ろうとする兼家、、、冷血な陰謀家といったところですが、史実においては不遇の時代もあったようです。m(__)m

兼家の祖父は、かの藤原忠平で、逝去後、「貞信公」なる諱(いみな)で呼ばれた高名な歌人でもありました。(^_^)

百人一首にもある有名な名句、これは、藤原兼家の祖父・忠平/貞信公が、宇多天皇の皇子であった後の醍醐天皇を思い遣り詠んだものとされています。(^。^)

「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」 

(訳)小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇がおいでになるまで散らずに待っていてくれないだろうか。

ちなみに、後世に「百人一首」を編纂した「藤原定家」は、この藤原忠平の7代のちの子孫だそうです。(^。^)

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

さて、兼家公ですが、従一位にあり、通称東三条殿。
兄兼通 (かねみち) との官位争いで有名。
兼通の死後、策謀によって花山天皇を退位させ、外孫一条天皇の即位を実現、その摂政・関白として権勢をふるった、とあります。m(__)m

性格は明るくてフレンドリーで、ユーモアとウイットに富んだ発言で笑いも取れちゃう人気者。
更には人に対して優しく情に厚く、器用で気も利き、当時は必須だった和歌の腕前も知識も申し分なく、素晴らしい才能がありました。

兼家は快活で魅力的な男性だったようですが、女性関係が派手で生涯、十人ほどの女性を妻や愛人にしたといわれ、これが妻・道綱母を苦しめることとなりました。( ; _ ; )/~~~

「藤原道綱母」は兼家の妻で、「蜻蛉日記」の作者として知られる、平安時代中期に活躍した歌人です。 (^。^)

摂政、関白、太政大臣を務めた「藤原兼家」と結婚し、「藤原道綱」を産みました。٩( ᐛ )و

ある日、兼家は道長らを呼び、道隆を後継者にすると告げたところ、道兼は納得がいかず、激高する、、、いわゆるお家騒動ですね。(^-^)

やがて兼家が逝去すると、跡を継いだ道隆が摂政になり、独裁を始めますが、、、実際に権力の座につき栄華を誇るのは、、、藤原道長となる、、、わけですね。(°▽°)/

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

京都は三条大橋から東へ進んだところに「大将軍神社」があり、素盞嗚尊を主神としながら、相殿には関白・「藤原兼家」が祀られています。m(__)m

桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将神社のうち、東南隅の一つで、特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり邪霊の進入を防ぐ意を以て重要視されました。(^_^)

このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁の乱で廃懐したが、境内に東三条社として名跡を留めています。(^-^)

又、樹齢八〇〇年と伝える銀杏の大樹があり、かつては鵺【ぬえ】の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治の伝説を偲ばせるものとなっています。( ^_^)/~~~

(注)東三条殿は,平安京左京三条三坊にあった平安時代の邸宅。藤原良房(804~72)が創設し,摂関家嫡流に伝領され,藤原兼家(929~90)は東三条殿と称された。兼家の娘で一条天皇(980~1011)の母であった詮子(961~1001)は,初めて女院号を与えられ,居住地に因み東三条院と名乗った。寛弘2(1005)年の内裏焼亡により一条天皇の里内裏として用いられた。仁安元(1166)年焼失。この石標は東三条殿の跡を示すものである。(京都市)

「初紅葉御幸の傘や今何処」 祖谷馬関

(注)初紅葉とは、いち早く紅葉し山野に秋の訪れを告げるもの。櫨や七竈、ぬるでの類。紅葉の本格派である楓は、これよりずっと遅れて紅葉する。
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