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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

筆マメ藤原実資の「小右記」

今年は、大河ドラマ「光る君へ」の放送とともに、紫式部はもちろん、その周囲に蠢いた貴族たち、とりわけ「藤原氏」に注目が集まりましたね。(^。^)

その中で、異色を放っていたのが、「藤原実資」(さねすけ)、、、ま、お笑い芸人のロバート秋山さんが演じたということが大きいかもしれませんが、、、٩( ᐛ )و

以下、ネットより引用します。m(__)m

藤原実資は道長よりも年上ですが、道長よりもだいぶ長生きし、永承元年(1046)、満年齢89歳の大往生を遂げます。

実資の日記『小右記』(しょうゆうき)には欠落した期間はあるものの、63年間に及ぶ記録です。
しかも1日の文章量が長く、具体的でわかりやすいだけでなく、実資自身の感想も書かれているため、とても貴重な史料となっています。
このことからもとてもまじめな人だったことが伺えます。

権力者である藤原道長に迎合せず、批判するところはキッチリ批判しつつも、立てるところは立てていた実資。
こういうバランス感覚のある先輩がいたからこそ、道長もただの権力欲に溺れた人にならずに、今日まで愛される人物になれたのかもしれませんね。

『光る君へ』の主人公である紫式部とはどんな関係があるかというと、特に密に接していたわけではありません。

しかし『小右記』には、実資やその代理の者が彰子の元を訪れた際に取次ぎをしたのが紫式部であることが書かれています。

平安時代の朝廷の大事件や政治闘争の舞台裏が詳しく記され、大河ドラマ「光る君へ」においても貴重な参考資料である「小右記」。

著者の藤原実資は働かぬ上司を給料泥棒呼ばわりし、コネでのし上がった者を、名前しか書けないバカもの、とこきおろす。

それでもオレ流を貫き、さらには人から頼られて人生を全うした、稀有な人物でした。

「この世をば/わが世とぞ思ふ/望月の/欠けたることも/なしと思へば」

これは、言わずと知れた、あの藤原道長の和歌です。

三人の娘たちを三代の天皇たちの后に立て、天皇と皇太子とを孫に持ち、長男を摂政に就任させた道長は、その栄光に満ちた身の上を、「この世をば…」と詠んだのでした。

この一首を後世に伝えたのは、道長自身でなければ、道長の取り巻きたちでもなく、むしろ終生にわたって道長の政敵であり続けた藤原実資という人物でした。

最後には右大臣にまで出世した藤原実資は、道長の祖父の兄の孫(又いとこ)であり、自身こそを藤原摂関家の主流と見なしていた貴公子でしたが、道長が「この世をば…」の歌を披露した宴席に居合わせ、この歌を自己の日記に書き留めて後世に伝えたのは、その実資だったのです。

もし彼の日記がなかったならば、道長が自身の栄華を誇って「この世をば…」と詠んだという興味深い事実は、永久に歴史の闇に埋もれてしまっていたはずでした。

藤原実資の日記は、現在、『小右記』(しょうゆうき)の名称で知られています。

それは、実資が二十歳の頃から八十歳を過ぎるまで六十年以上もの長きにわたって書き続けた大部の日記ですから、その中はというと、王朝時代についての、特に藤原道長の時代についての、生々しい証言に満ち満ちています。

『小右記』は、右大臣藤原実資の生涯の記録であるとともに、藤原道長政権の詳細な実録でもあるのです。

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

藤原実資、、、興味深い人物像ですね。
しばらく、この「藤原氏」を深掘りしていきたいと思います。(^_^)

「望月と呼びたしが我寒月や」 祖谷馬関

(注)寒月は、厳寒の空にさえざえとある月。満月に近い寒月の夜は、冷たい月光が降り注ぎ建物の影や自分の影が地面に黒々と落ちる。いよいよ寒さが身に滲みて、帰宅の足も自ずと早まる。
 
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