藤原氏の深掘りと決めて、ふと、考えたこと、、、どこから始めるか、いや、誰から始めるか?٩( ᐛ )و
小右記の実資、道長の父の兼家、祖父の忠平と来ましたが、やはり、ここいらで、家系図の初めから、しっかり深掘りしたいと思いまして、、、m(__)m
というわけで、藤原冬嗣(ふゆつぐ)からスタートしたいと思います。( ^_^)/~~~
冬嗣は、平安初期の貴族で、嵯峨天皇の信任厚く、側近として政界の頂点に立ち、のちの摂関家興隆の基礎を築いた。 漢詩、薫物(たきもの)にも才を発揮したほか、藤原氏の族長として氏族の結束を促し、また最澄・空海を支援するなど、仏教界にも貢献した、とあります。(^-^)
810年、嵯峨天皇が「薬子の変」に際し、藤原冬嗣、巨勢野足を蔵人頭に任じたことも有名ですよね。٩( ᐛ )و
蔵人頭は、秘書的役割を担う役職で天皇の意思を太政官組織に迅速に伝えることが主な仕事、とのこと。(^。^)
家系図で言うと、冬嗣の子が良房で、その養子が基経、その子が時平や忠平、忠平の子が師輔で、その子が道隆や道長、道長の子が頼通、、、と続きます。(^_^)
ちなみに、冬嗣の娘「順子」は仁明天皇の皇后となり、良房の娘「明子」は文徳天皇の皇后、基経の娘「温子」は宇多天皇の皇后です。m(__)m
道長の三人娘「彰子、姸子、威子」がそれぞれ天皇に嫁いだ「三皇后」よりも何代も前から、天皇家との外戚関係は、藤原氏にとってなくてはならないものだったんですね。(°▽°)/
参考までに、彰子は一条天皇、姸子は三条天皇、威子は後一条天皇の皇后(中宮)となっています。(^。^)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
当の藤原冬嗣です。
冬嗣と京都との関わりは、大きく二つ。(^-^)
まず、「大原野神社」ですね。(^-^)
延暦三年(784)、長岡京への遷都にあたり、桓武天皇の皇后「藤原乙牟漏」が春日大社の神霊を勧請、嘉祥三年(850)には、藤原冬嗣が社殿を建てた、とあり、その後、応仁の乱以後、後水尾天皇が荒廃した社殿を再建したとされています。
次に、大学別曹の「勧学院」٩( ᐛ )و
冬嗣は、821年(弘仁12)、藤原氏の氏院(うじのいん)となる大学別曹として、「勧学院」を、藤原氏の学生(がくしょう)のために創立しています。m(__)m
ちなみに、泉涌寺、天皇家ゆかりの「御寺」(みてら)は、856年、「藤原緒嗣」(おつぐ)が帰依した神修上人が創建。緒嗣は、空海が建立した今熊野観音寺の伽藍も造立しました。家系としては、彼は北家ではなく「式家」の藤原百川(ももかわ)の子で、左大臣を務めた貴族、桓武朝から嵯峨朝にかけて活躍しました。(^。^)
「家柄に縛られ生りて早生蜜柑」 祖谷馬関
(注)早生蜜柑とは、早なりの温州みかんのこと。熟期は十月中下旬。宮川早生、興津早生などの品種があり、早生ながらも糖度が高い。たんに「蜜柑」といえば冬の季語になる。
小右記の実資、道長の父の兼家、祖父の忠平と来ましたが、やはり、ここいらで、家系図の初めから、しっかり深掘りしたいと思いまして、、、m(__)m
というわけで、藤原冬嗣(ふゆつぐ)からスタートしたいと思います。( ^_^)/~~~
冬嗣は、平安初期の貴族で、嵯峨天皇の信任厚く、側近として政界の頂点に立ち、のちの摂関家興隆の基礎を築いた。 漢詩、薫物(たきもの)にも才を発揮したほか、藤原氏の族長として氏族の結束を促し、また最澄・空海を支援するなど、仏教界にも貢献した、とあります。(^-^)
810年、嵯峨天皇が「薬子の変」に際し、藤原冬嗣、巨勢野足を蔵人頭に任じたことも有名ですよね。٩( ᐛ )و
蔵人頭は、秘書的役割を担う役職で天皇の意思を太政官組織に迅速に伝えることが主な仕事、とのこと。(^。^)
家系図で言うと、冬嗣の子が良房で、その養子が基経、その子が時平や忠平、忠平の子が師輔で、その子が道隆や道長、道長の子が頼通、、、と続きます。(^_^)
ちなみに、冬嗣の娘「順子」は仁明天皇の皇后となり、良房の娘「明子」は文徳天皇の皇后、基経の娘「温子」は宇多天皇の皇后です。m(__)m
道長の三人娘「彰子、姸子、威子」がそれぞれ天皇に嫁いだ「三皇后」よりも何代も前から、天皇家との外戚関係は、藤原氏にとってなくてはならないものだったんですね。(°▽°)/
参考までに、彰子は一条天皇、姸子は三条天皇、威子は後一条天皇の皇后(中宮)となっています。(^。^)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
当の藤原冬嗣です。
冬嗣と京都との関わりは、大きく二つ。(^-^)
まず、「大原野神社」ですね。(^-^)
延暦三年(784)、長岡京への遷都にあたり、桓武天皇の皇后「藤原乙牟漏」が春日大社の神霊を勧請、嘉祥三年(850)には、藤原冬嗣が社殿を建てた、とあり、その後、応仁の乱以後、後水尾天皇が荒廃した社殿を再建したとされています。
次に、大学別曹の「勧学院」٩( ᐛ )و
冬嗣は、821年(弘仁12)、藤原氏の氏院(うじのいん)となる大学別曹として、「勧学院」を、藤原氏の学生(がくしょう)のために創立しています。m(__)m
ちなみに、泉涌寺、天皇家ゆかりの「御寺」(みてら)は、856年、「藤原緒嗣」(おつぐ)が帰依した神修上人が創建。緒嗣は、空海が建立した今熊野観音寺の伽藍も造立しました。家系としては、彼は北家ではなく「式家」の藤原百川(ももかわ)の子で、左大臣を務めた貴族、桓武朝から嵯峨朝にかけて活躍しました。(^。^)
「家柄に縛られ生りて早生蜜柑」 祖谷馬関
(注)早生蜜柑とは、早なりの温州みかんのこと。熟期は十月中下旬。宮川早生、興津早生などの品種があり、早生ながらも糖度が高い。たんに「蜜柑」といえば冬の季語になる。