華道、、、いわゆる生け花の歴史は古く、
神の御代から、季節の変化の中で樹木や草花に特別な意味を見出し、神の依代として信仰していました。(^。^)
その後、仏教の伝来に伴い、仏に花を供える風習(仏前供花)も一般化していきました。(^-^)
室町時代あたりから、中国の絵画や器物など、いわゆる唐物を飾るための建築様式として、書院造が成立します。(^_^)
足利将軍など権力者の邸宅や寺院には、床の間の原形といわれる押板や違い棚などが設けられ、花瓶も飾られ、「同朋衆」によって、三具足(花瓶・香炉・燭台)も採り入れられ、真(本木)と下草からなる「立て花」が立てられました。(^。^)
寛正3年(1462)、六角堂の僧侶・「池坊専慶」が武士に招かれて花を挿し、京都の人々の間で評判となりました。(^-^)
池坊に伝わる「花王以来の花伝書」は、現存する最古の花伝書といわれ、立て花に加えて掛花や釣花など、様々な花が描かれています。(^_^)
16世紀前半、「池坊専応」は「華之上手」と称され、専慶以来のいけばな理論をまとめ、花伝書「池坊専応口伝」を弟子に相伝するようになります。( ^_^)/~~~
「池坊専好(初代)」は文禄3年(1594)、秀吉を迎えた前田利家邸の四間床に大砂物を立て称賛されたといわれます。(^。^)
江戸時代、専好(初代)の名を継承した「池坊専好(二代)」が江戸へ赴き、武家屋敷で立花を立てました。
一方京都では、立花を愛好した「後水尾天皇」が親王や公家、門跡たちを宮中に集めてたびたび立花会を催し、「専好(二代)」が指導者として活躍しました。(^-^)
江戸時代、専好(初代)の名を継承した「池坊専好(二代)」が江戸へ赴き、武家屋敷で立花を立てました。
一方京都では、立花を愛好した「後水尾天皇」が親王や公家、門跡たちを宮中に集めてたびたび立花会を催し、「専好(二代)」が指導者として活躍しました。(^-^)
立花の一方で、小間や数寄屋に「生ける」軽やかな花も関心を集めるようになり、抛入(なげいれ)花とも呼ばれていました。(^_^)
18世紀の中頃、池坊専純の代になると、抛入花は格調高い姿に整えられ、生花(しょうか)と呼ばれるようになりました。( ; _ ; )/~~~
それにしても、平安時代に描かれた「鳥獣人物戯画」の絵巻の中に、仏に見立てた蛙の前に蓮の花が供えられている、いわゆる「仏前供花」の場面があることには驚いてしまいます。( ^_^)/~~~
「立て花の名手六角池坊
抛入花や禁裏の華や」
by 祖谷馬関