廊下の突き当たり。その扉は開いていて、そして中に奴は居た。
ベッドと机、ソファ、造り付けの本棚。広く作られた部屋にあるのはそれだけで、とてもゆったりとしている。
なのに主人はその部屋の隅で、まるで閉じ込められているかのように、壁に背をつけ膝を抱えて床に座り込んでいた。周囲に散らばる何冊かの本。また小難しい哲学書か何かか。そんな文字の羅列が救いになるとは、俺にはどうしても思えないのだが。
「起きてるか?・・・いや、生きてるか?」
その問いかけに、気怠そうに顔を上げたJr.。
頭を覆う全てを脱いでいるせいで、普段隠れた大きな蒼い目がこちらを向くのがはっきり見える。
そして大事な筈の軍帽は、俺のすぐ足元に転がっていた。
年月と経緯(いきさつ)が刻んだ薄い皺以外、相変わらず整い過ぎたその顔は、この一、二年、いよいよ生気が無くなって人形のようだった。今日は酔った気配はない。だが、酔っていてくれた方が、それを咎められる分、こちらも正直気楽だった。
ーー今日は、違うな・・・。
そんな、何気ない予感。
だが流石に、まさか本当にこれきりになるとまでは思っていなかった。
切れ切れなりにずっと奴を見てきたが、その十数年、Jr.はゆるやかに己を失っていった。
奴が自ら俺に喋る事。そんな断片を繋ぎ合せただけなので、全てを知っている訳ではない。
だが、それでも不幸な事態に奴が陥ったのは明白だったし、加えてそれらには、ある一つの共通点を含んでいた。
それは“自分は何なのか”という、簡単で、しかし一旦迷うと抜け出せなくなる問いだった。
一族最後の徽章の持ち主となったJr.に、周囲の人間は超人としての価値を求めた。
だがその思いが行き着いた先が最悪だった。
何とか超人の力を人間に生かそうと、奴の体を調べ始め、挙句血を抜き、切り刻みすらした。
人権やら倫理やら、殊勝な事を唱えてはいても、それは人間同士に限った話とでも言うのか。
そんな言い訳が聞こえてきそうな蛮行。思考が麻痺した人間共に、Jr.は”珍しい絶滅寸前の生き物”としか、見えていなかったのだろう。
そして歪んだ一部の人間の思考は別の角度からも、奴の国の超人をも巻き込みながら、少しずつJr.の立ち位置を変えていった。
この国に来る度、自分すら年々感じるようになったのは、人間の超人を見る”目”だった。
絶大な力を持つ俺達を、以前はもっと、畏怖やら憧れやら尊敬やらが混じった感情で見ていた気がする。
だが、国で一番の実力者だった超人が実は人間だった事。それが最初は純粋な驚きとして。しかしやがて、超人も大したことないんじゃないかという、見下すような雰囲気を伴って広がってしまったようだ。
結果、超人達の立場はかなり悪くなり、Jr.を逆恨みするお門違いな奴まで現れる始末。
そして何の罪も無い筈のJr.自身が、その事に酷く罪悪感を感じてしまうという、正に悪循環だった。
超人には、元人間だと言われる。
人間には、超人であれと言われる。
さらに一部の人間には、人とも思われない。
確かに、こんな世界で己を保てと言う方が無理な話だと思う。
ーーソルジャー・・・。あんたの言ってた事が、やっと分かった気がする。
いっそのこと、狂ってしまえれば良かったのかもしれない。
だが、悲しいかな、完全に狂ってしまえる程Jr.は弱くなかった。
「一か月ぶりぐらいか・・・。前も言った気がするが、ちゃんと食ってるのか?」
そんな、過保護な母親じみた言葉を掛けながら、俺は道中買ってきた物が入った紙袋からボトルを一本取り出すと、残りを袋ごとJr.の鼻先に差し出した。
しばらくぼんやりとそれを眺めていた奴は、やがてのろのろと手を出し受け取った。
そして中から林檎を出すと、申し訳程度に一口かじった。
「ちょっと前に食ったよ・・・。断れねぇ招待だったから」
「会食ってヤツか?」
「ああ。魚は嫌いだから食わなかった。けど、肉は美味かった気がする。今夜も呼ばれてるし」
「それを”食ってる”とは、普通言わないんだがな」
「今、林檎食ったよ」
Jr.が言うところの”ちょっと前”が、一体何日前の事を指しているのか不安になる。
一か月前に見た姿から、さらに痩せたようだった。
何だか急に酷く喉が乾き、ボトルの封を開け一気に半分程飲んだ。
沈黙が続く。
さて、話をするにせよしないにせよ、とりあえず己の腰を下ろす場所を決めなければならない。
何時もなら迷わず奴の横に座るのだが、今日は何故か近寄る事を躊躇った。ならばソファかベッドか。だがベッドは遠すぎるので消去法でソファに落ち着く。
丁度、Jr.と正面から向き合う形になる。しかも床とソファの高さの差に俺の身長が加わり、自然と俺は奴を見降ろす格好となった。
ほんの、ちょっとした位置ーー見方ーーの違い。
だが世の中、何が引き金になるか分からないものだ。