俯いたまま立ち尽くし、しかし自分が思っていたよりはずっと短い時間を経て顔を上げたJr.は、思わず弱い心中を晒してしまった気恥ずかしさからだろうか。
微かに頰を赤らめながら、一言「悪い」と私に詫びると右手を空に掲げた。
すると間もなく、放り投げた軍帽が音も無くその手に戻って来た。
徽章を手にした事で、奴の肉体は再び盛り上がり張りを取り戻していった。人間に戻った時よりも苦しげな呼吸を繰り返す。摂理に反した力を無理矢理その身に宿すのだから、無理もないと思った。
そして徐々に、肩と腕はかつての色味を纏っていった。
ただ、人間の姿を見た時程の驚きは最早無かった。
ひとたび常識を覆された思考は、それらの光景をも比較的容易に受け入れる柔軟さを持ち合わせていた。
太陽の位置が大分高くなっていた。
昼食の時間はとうの昔に過ぎただろう。
安静を言い渡していた患者が二人揃って居なくなっているのだ。もしかすると今頃、院内を探し回っているかもしれない。
しかし何となくそこに戻るのも躊躇われた私達は、今度は二人並んで通用口の扉がある壁の側に座り、しばらく何を話すでもなく空を眺めていた。
いよいよ妙な心地。
親を殺した本人と殺された子供が、こうして並んで過ごしている事に、やはり戸惑いが全く無いと言えば嘘になるが、しかしこれも悪くないと思える確かな何かが、二人の胸を満たしていた。
それに、面と向かうよりもこうして並んだ方が素直に本音を話し易い。
そういう理由ーー真理ーーも後押ししたのか、やがて隣の子供は再びぽつりぽつりと話し始めた。
「俺、本当はあんたに感謝してたのかもしれない」
「何をだ?父のあれを持っていた事ではなくーーか?」
「うん。俺・・・確かに親父が死んだ時、すげぇ悲しくて、だからあんたを何としても殺してやろうって・・・そう、思った」
「私が言えた義理でもないが・・・至って正常な反応だな。それは、無理もない事だ」
「ああ。だから必死で殺してきた。親父が死んでからずっと。あんたを殺す為に。あんたが親父を殺したリングに立つ為に」
「・・・」
「もっと強くなって、殺す。その為だけに・・・」
「・・・ああ」
そこで少し会話は途切れた。
お互いの視線は、変わらず快晴の空に向けられていた。
しかし私は、直接見るより遥かに正確に奴の表情を思い浮かべていた。
無理に先を急がせはしない。
ただ静かに待てば良い。
そして再びJr.は語り始めた。
「ファ・・・親父が居なくなって悲しかった。でも、時間が経ってくうちに、だんだん違う事がもっと悲しくて辛くなってきた」
「人を殺す事か?」
「それも・・・あったかな。でもそれよりも、だんだん親父が周りの人の中から消えてくのが辛かった・・・」
「・・・」
「親父が死んで、すぐに俺が次の頭首になった。何で俺かなんて知らない。俺以外の徽章持ち全員、俺より年上なのに。気付いたら、勝手に決まってたから・・・って、別にどうでも良かったけどさ」
「・・・」
「俺、ずっと徽章が欲しいって事しか頭に無かったから・・・頭首が何するかなんて訓練の間も全然考えた事もなくて。だから頭首に就いても言われた最低限しかやらなかった。試合に出る・・・殺す事の方が忙しかったし、俺にとって大事だったし・・・」
「・・・ああ」
「でも、ちょっとだけ気持ちが落ち着いてきて、それで周りを見てみたら・・・気付いちまった。俺の周りの誰一人、悲しんでないって事・・・」
「・・・」
「みんな、普通にしてたんだ。みんな頭首が居ないのは困るけど、親父が居なくても、次期頭首が全然役立たずでもそれでも・・・悲しんではなかった」
「・・・」
「聞いてなんかない。聞いたらきっと、悲しいですって言うと思う。でもみんなとっくに忘れてた。少なくとも俺にはそう見えた」
「・・・」
「ついこの前まで親父は居たのに、俺はこんなに覚えてるのに、みんな忘れてるんだ。それが嫌だった。嫌で悲しくて腹が立って、でもーー」
ここで初めて、Jr.はこちらを向いた。
蒼い目が微かに揺れながら、縋るように私を捉えていた。
「でも、あんたは親父をちゃんと覚えてた。そしてあんたが戦ってんのを観る奴らも、あんたを通して、親父を思い出してた。どんな無様な姿でもいい・・・だから、それが嬉しい・・・とはちょっと違うけど、でも、だからーー」
「だから私を、殺せなかったーーか」
「うん・・・あんなに殺すつもりだったのに、殺せなかった」
誰かに理解して貰いたくて。
なのに誰にも、口にすら出来なかった胸の内。
しかも、望まず得た頭首という立場が、一層周囲との隔たりを広げてしまったのだろう。
ーー辛い・・・いや、ずっと、お前は寂しかったのだな・・・。
ただ、まさかそれを己の仇に打ち明ける事になろうとは、何と皮肉な巡り合わせだろうか。
ーー全ての事象には必ず理(ことわり)がある ・・・とするならば、これも?
しかし、少なくともその皮肉を恨めしく思う心情は、二人どちらの中にも存在してはいなかった。