時期的に少し遅かった様で、花の数は少なかったですが、全盛期なら綺麗かったと思います。
道の駅入り口には、日本のへそと書いた昇りの様なシートが貼られていました。
道の駅の裏には、芝生広場があり、ベンチも完備されています。今は暑くて誰もいませんが、春や秋には、ドライブの休憩やお弁当を広げ食べたり、楽しめる公園です。
芝生広場の横には、西脇の市民プールなどの運動施設もありました。
奥の広場には、日本のへそ ハーブ園があります。
道の駅の近くには、アジサイ寺で有名な西林寺があります。今年は、コロナの影響でアジサイ園は閉園していましたが、例年の六月は観光バスなどで参拝者が訪れるお寺さんです。
季節外れなので、人は誰もいませんでした。
近くの加古川では、闘龍灘があり、独特の鮎漁が行われています。
道の駅の近くには、播州ラーメンの有名店があります。大橋ラーメンで甘いスープが有名で人気があります。西脇は織物町で昔は女工さんがたくさんいました。その女工さんの為に玉ねぎベースで作られたラーメンです。

山の谷ににも同じ鋼鉄製の配管川あります。土砂で半分ほど埋まっていました。


神子畑鋳鉄橋は日本に現存する鉄橋としては三番目に古いとされるが、一番目の大阪の心斎橋(明治6年)は錬鉄製であり、二番目の東京の弾正橋(明治11年)は錬鋳混用である。したがって本鋳鉄橋は全鋳鉄製の橋としては日本最古の橋となります。
神子畑鋳鉄橋から上流に2km弱登ると、神子畑選鉱場があります。明延鉱山の選鉱施設として建設された選鉱場です。
神子畑選鉱場も、かつては鉱山として繁栄した時期があり、その歴史は古く、800年頃から鉱山として開拓されていたそうです。
山の斜面を利用した機械選鉱場はその規模・産出量ともに「東洋一」と言われていたそうです。
現在は鉄筋コンクリートの基礎構造物と、選鉱場の上下を結んでいたインクラインの跡が残され、
現在は史跡公園「鉱石の道神子畑ステイション」として整備されている。
明延から神子畑までをつないでいた「明神電車」も展示されています。
山の中のトンネルを走り、山の反対側の明延鉱山まで走っていた電車です。
今は、線路も撤去され、トンネルも崩れて走ることが出来ないそうです。
ここから、明延鉱山まで22㎞、車で40分ほどで行けるそうです。
鉱山の見学は毎週日曜日に坑道も見学出来るそうです。予約は必要と、説明を受けました。
鉱石の道神子畑交流館 神選 6月29日(月)にオープンしたそうです。昭和50年代頃の神子畑周辺を再現したジオラマや、明治27年頃の神子畑山神宮の神輿など間近で見ることが出来ます。
お土産物ショップもありました。
神子畑に向かう道を車で走っていると突如現れる小さなトンネル跡があります。
神子畑選鉱場と新井駅を繋いでいた新神線の平野隧道跡です。
神子畑で選鉱された銅鉱石については生野製錬所を経由せず、新神線で新井駅へ、さらに播但線で飾磨港に運ばれ、直島製錬所へ海上輸送された。
現在、トンネルはコンクリートで封鎖されていました。
日本遺産 鉱石の道 色々勉強する事が出来ました。
次は、明延鉱山の見学を予約して散策したいと思います。
この橋は、もとは別の場所に架かっていたのですが、此処に復元されました。
『宍粟郡誌』(大正12年)には以下のように記されている。
「田井より与位に至る途、揖保川の清流山脚を洗う処に二個の巨巖あり、其の形頗る奇なり。巖頭には老松枝を伸べて空に翻り、断崖数十尋、
羊歯岩松の類これに叢生し、下部は碧潭に臨みて倒映の景奇絶なり。もと桟橋を架して風到を添えたりしたが、今は隧道を穿ちて奇いよいよ加われり」
当時は、岩端に桟橋をかけて通行していたが、洪水時には落ちた。
このため、1903年(明治36年)頃に村人らによって2年がかりで隧道が掘られた。
1926年(昭和元年)には荷車が通れるほどに拡張され、
さらに1968年(昭和43年)には大型自動車が通行可能なまで拡幅工事が施された。
トンネルの川側の岩には、桟橋の穴が残っています。この穴に丸太を突き刺し、その上に板を置いて通行したのでしょう
岩肌には何カ所も穴が残っていました。
対岸に移動して、与伊の洞門を見ました。
岩肌に無数の穴が開いていました。
紹介している内容が、洞門横の説明看板に書いてありました。