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「ライトの日本五十景」
だいぶ前に、古本屋で購入した「ライトの日本五十景」という本を改めて眺めてみた。
フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)の名前は、建築やデザインの世界の人でなくても、一度は聞いたことがあるだろう。
ル・コルビュジエ、 ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれるアメリカの建築家である。
そう、日本では、取り壊されてしまったが、あの帝国ホテルの設計者として広く知られている。
ライトは、1913年(大正2年)帝国ホテルの設計を依頼されるべく、来日するのだが、ライトが初めて日本を訪れたのは1905年(明治38年)で、米国の顧客の招待で、妻のキャサリンと共に3か月の日本旅行をしている。
フランク・ロイド・ライトに関しては、多くの本が出版されているが、彼らの日本旅行については SD選書の谷川正巳著 「ライトと日本 」 鹿島出版会に詳しい。
「ライトの日本五十景」は、ライト夫妻が日本を旅行中に、ライト自身が撮影した写真をまとめたアルバムである。
ライトの建築や芸術に大きな影響を与えたのは、日本の芸術や文化であるといわれているが、解説では、ライト自身の目を通した、日本、建物、風景、そして人々・・・これらの写真から、ライトの多くの傑作の基礎が発見できると述べている。
アメリカで出版された、英文の本だが、写真アルバムだけに眺めているだけで楽しい。
「ライトの日本五十景」を眺めていて、ユハ・レイヴィスカ (Juha Leiviska) のことを思い出した。
30年以上も前だが、ユハ・レイヴィスカが、S酒造の依頼で、山梨県にゲストハウスとレストランを設計する機会があった。
その初期の段階で、彼のアドバイザー、通訳を務めた。
日本で最初の彼の作品になったであろう、この建築は、残念ながら色々な事情で、実現しなかった。
とても、とても残念だが、レイヴィスカとの数日間は、楽しい思い出である。
建物の詳細は、「a+u 建築と都市」 95:04 No.295 「ユハ・レイヴィスカ特集号」に「レストラン 計画案」として掲載されている。
この計画や、体験については、改めて書きたいと思う。
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ユハ・レイヴィスカ、敷地調査での様子。
山梨県の敷地調査を終え、東京に戻ってからの一日。
建築主との打ち合わせは、午前中で終わり、午後は自由時間となり、ユハ・レイヴィスカと二人で都内を散策することになった。
歩いていて、彼が、カメラを持っていないのに気付いた。 そういえば、この調査旅行中、彼は一枚も写真を撮らなかった。
今、思えばカメラさえ持っていなかったのだ。
僕が、写真を撮っているのを見て、彼は僕のカメラを貸してくれと言う。
それ以降、僕のカメラの中は、レイヴィスカが撮った、彼の目を通した東京の建物や、景色、街並みで溢れ、まさに「ライトの日本五十景」ならぬ「レイヴィスカの東京五十景」が実現した。
来日した外国 (主にフィンランド) の建築家やデザイナーの友人たちを案内することが度々あったが、いつも面白いと思うのは、彼らの興味の対象が僕たちと違う事である。
何の変哲もない、窓や柱、庇や屋根、納まり、ディテール・・・僕たちには何が面白いのか、思いもよらないものであることが多く、新たな発見があり、興味深い。
レイヴィスカの撮った写真の中にも、彼が何に興味を持ったのか、分からない写真が何枚もある。
機会を見て、紹介しよう。
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ユハ・レイヴィスカが撮影した写真の1枚。 神宮前のワタリウム美術館の後ろにある、日本家屋。
彼が撮った写真は、殆どがタテ型の写真で、レイヴィスカはタテ型の写真が好きなことを発見!
縦方向が強調されたフォルムのレイヴィスカ建築を彷彿させるようで面白い。
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ユハ・レイヴィスカが撮影した写真
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ユハ・レイヴィスカが撮影した写真
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ユハ・レイヴィスカが撮影した写真
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「ライトの日本五十景」
FRANK LLOYD WRIGHT’S FIFTY VIEWS OF JAPAN,
THE 1905 PHOTO ALBUM
Edited by Melanie Birk
Frank Lloyd Wright Home and Studio Foundation
Pomegranate Artbooks
San Francisco
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「ライトの日本五十景」より
フランク・ロイド・ライト研究家として著名な谷川正己が 「1905年 ライトの旅程」を寄稿している。
1905年 (明治38年)
2月14日(火) Oak parkを出発。
3月7日(火)カナダのバンクーバーを経由して横浜に到着
3月7日ー4月20日 鉄道にて西に向かって旅をする。 名古屋、京都、神戸、そして奈良と大阪へも向かう
その後、鉄道にて岡山へ、瀬戸内海を船で渡り、高松へ
4月21日(金)東京へ戻る
4月23日(日)ー25日(火)日光(金谷ホテルに滞在)
4月25日(火)ー27日(木) 箱根(富士屋ホテルに滞在)
4月28日(金) 横浜より帰国
5月14日(日) Oak parkへ帰る
1905年 (明治38年) といえば、5月にロシアのバルチック艦隊と日本艦隊が、対馬沖での「日本海海戦」、激突した年である。
同年にフランク・ロイド・ライト夫妻は、日本旅行をしている。
社会状況はどんなであっただろうか? 旅行に影響はなかったのだろうか?
この時代、戦争は後の時代の戦争より、ずっと限定的な地域戦で、国が戦争中であっても、観光旅行が可能であったのかもしれない?
そして、彼らが帰国した同年の9月にアメリカのポーツマスで、日本とロシアの「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結された。
ついでに書くと、建築家の前川国男が生まれたのも、この年1905年であった。
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「THE 1905 PHOTO ALBAM」
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「ライトの日本五十景」より「名古屋・東本願寺名古屋別院、京都・知恩院」
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「ライトの日本五十景」より「神戸・生田神社、岡山・後楽園の庭」
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「ライトの日本五十景」より「寺への斜路と門」
明治38年、ライト自身が撮影した日本が、この写真アルバムには五十景。
アルバムに登場する寺や神社は現在でも、そのままの姿で残っているだろう。
それらの場所を訪ね、アルバムの写真を眺め、110年以上も前に、実際にフランク・ロイド・ライトが立っただろうと思われる位置に立ち、ライトが何を思ってシャッターを切ったかに思いを馳せてみたい。