菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

2016年01月15日 | 菅井滋円 作品集
 

菅井滋円展 ―形象の孤独―1





1969年わたし第一回の木屋町画廊でした その中案内状で
「わたしの絵は好きなように描く そのため蓮の台の上で天上音楽を聞きながら 惰眠することは御免だ わたしは 針の山のへ登る方を選びたいと・・・」
そのトキ32・3歳の若造は いま八十歳のジジイになった その案内状はまことに 脇の下からヒアセのでる思いで読み返してみた。
自らの愚鈍者を省みる機会となったが なるほど・・そのトキの思いはイマも変ってはいない この頑固者メ と呆れ果てるばかりだった。

この榧(かや)の木の絵は130㎝×130㎝はおおきなものなのだが はっきり覚えてはいないが50歳台ころに この絵を描いたのだろう。
その後長く病気になるのだから 今回の個展は「病」からの出発と云うことになる。

そもそも小野の小町が植えた百本の榧が山科の地にイマなお4本残されている この木の作品はその中の一本で その姿をイマに残す証人のように思える。

わたしを顧慮してくれた人々の忠告を省みず この愚鈍な奴は  ひとりその群れから去った。
フトした時に機会があり鶴身幸男氏と再会した 十年ぶりくらいの再会だった また彼の個展を神戸で見たり 彼がわたしの家へバイクで訪ねて来たりし その際きまってわたしに云う言葉が
「菅井さん これで個展を開いてはどうか!」
と云って勧めてくれた 彼とヒルゲートを訪ねた日そこで 来年は予定がイッパイ その翌年と云うことにオーナーの言葉であった。
よく考えると2年半後のコトは肝臓に腫瘍を持っているわたしには2年半は約束できない しばらくして その病は再発し府立病院の病床にあったが 処置が終わりその電話を 聞くとオーナーからもので1月26日から31日の一週間 わたしのために日を造っておいて呉れた   わたしのオペは終わていたのでその申し出を快諾した。
その知らせをメールした鶴身氏の忠告を受けることとなった 彼は喜んでくれた。

だが彼も亦この作品は見せたことはないのだが どの様な反応するか興味がある。



謹賀新年

2016年01月08日 | 菅井滋円 作品集

謹賀新年


新年のご挨拶が大変遅れました 今年もよろしくお願い申し上げます。
よい年となりますように 心からお祈り申し上げます。
     2016年 1月8日

         菅井滋



菅井滋円展

2016年01月08日 | 菅井滋円 作品集
菅井滋円展
――形象の孤独――
1月26日(火)~31日(日)
寺町三条上がる ヒルゲート画廊






形象の孤独
今年の一月で八十歳となった 若い日には考えてなかった高い位置に立った それは人生を展望する位置を得たことになる   この度友人の勧で個展を開くことになった。  わたしは病の間々に描きためた作品が些かある それなりの一つの到達点と云うことになる この機会にそれらを並べることにした。
その近過去の作品を出して見ると 共通したテーマが見つかったそれは 一つのモノを追い詰めることであった 言うなれば「形象の孤独」と云うことになる。
加えてわたしの歴史好きがある なにか 古めかしい画面がある マチエールは初めから画面が汚れていたかのようで それはその汚すことから出発していた 或いは 古代の障壁画に似ている。

タイトルに掲げた作品は牛なのだが 野太いモノだが 板絵で厚さ3センチ位の合板に 溶解した蝋に顔料を用いたもので 嘗てはエジプトで行われていたモノに近い。 そのようなモノを集めた40点程の作品である。

ご来場をお待ち申し上げます。

遠藤久仁子さんのこと

2015年12月25日 | 菅井滋円 作品集




遠藤久仁子さんのこと
遠藤久仁子さんとは偶然の機会に知り合いになり そして35年となった。 わたしはとうとう八十歳になってしまった。
イマにして思えば 八十年は一睡のうちであり わたしは浦島太郎になったようだ。
演劇のことには無知だったが 遠藤さんに連れて行って頂いたのだが それがそもそもの始めだが その場所が 何処であったか 霞がかかった遥か彼方で 演劇の内容もすっかり忘れた それが始めての記憶である その無知なわたくしに彼女は
「演劇では右側を上手(かみて)と云って 芝居は上手から始まり 下手(左しもて)へ展開するのですョ・・・」
わたしはその会場の二階の席からボンヤリ見ていた 不透明水彩で描かれた平板な舞台には 電柱とブルーの窓 その右に板塀 背後にミドリの樹木が描かれ その前で やがてカーテンが開かれる すると男が佇立している。
その男はいきなり なにか台詞を語りだした 台詞の言葉は忘れたが 驚いた 驚いた 率直なことだが この男酒も呑まず こんな言葉が話せるものだ・・・よくこんな台詞が語れたものだ!  酔いもせず というのが大きな驚きであった。

わたしは以後 それを機会に彼女の演劇を見ることになった つまりフアンになったのである。
会場はあちこちで開かれていたが 一番印象に残るのは 桂川の九条辺りの川沿い堤の下の工場の二階でご苦労をされていた とりわけ京都の町はずれの工場の二階。
これを知る人も極はめて少なくなった わたしにとっては懐かしいが ご本人はご自分に対面するトキであったろう 貴重な時間であったのであろうと思っている。
その努力に対して客はまことに貧弱で その貧弱な客の前で 変わることなく 堂々と一心に演技をされている様子は 背水の陣で変わらず熱演する なかなか出来るものではない 少ない観客の前でなかなか・・出来るモノではない。
イマ思うと言葉にならない  一つのことを一貫して持ち続けることは それは それは難しい。

わたしの個展に来てくれた 遠藤さんのことをわたしの女房殿は
「遠藤さんの後ろにオーラが出ている」
と云っていた 他者から見て当然のオーラも出ているのであろうと思っている。

ご一門には後継者にも恵まれ フアンの一人として確実な成長は楽しみである。




常滑 5

2015年12月18日 | 菅井滋円 作品集



常滑 5
予定通り入院して 予定を一日遅れの帰宅となった。 一日遅れはわたくしの横着な行動に因るものであり オペ後一日おいて次ぎの日 院内を歩きまわり 1階の喫茶室CRIÉへ行ったり 肌着を買いに行ったりしていた そのため あわや心臓が痛くなり 麻痺を引き起こしそうになった。
もう少し穏やかに 病を受け流すという精神がわたしには足りない と反省させられた。

病室では鈴木大拙の「座談集」と後藤朝太郎「支那の体臭」の二冊を読んだ。
ある日ヒルゲートの人見さんから 電話を頂いた 用旨は来年開く個展のことであり 話し合った結果 2016年1月25日(火)~31日(日)という日に決まった。
その他菅井滋円作品展に「形象(カタチ)の孤独」と云う言葉をサブタイトルで設けることとした。
わたしの描く絵コトなのだが いつも「形」が擬人的な影を帯びおり 余計な愛想をしない。

この度の展覧会では 海中を漂った漁具のプラスチックの「浮き」を若狭湾で拾い持ち帰ったことが そもそもの始めであり それをしばらくアトリエで眺めていた そこで気付いたことは この浮遊物にはストーリーがあり 物体の内部に時間が宿されている   それは海の響きであると 波の狭間を浮遊し削ぎ落すものは 削ぎ落した表情がある。

プラスチック割れた漁具は ある時はドルメンであり メンヒルであり ストンサークルのように見えた そこにはモノのもつストーリーが語られているのに気が付いた 時間が凝縮されている それがわたしの流儀では その形象にマリアを見たり 観音を見たり 人に寄り添い化(ばけ)て行く そしてイメージができるのである わたしが漁具のドロップアウトしたものを描いて 見る人の随意に任そうと思いだしてきた。

人は絵の前で夢想する それを頭に刻み込む。
無駄のモノを削ぎ落した形象はシヤ―プであり それは漁師から わたくしへの提言となった。

奥の収納庫が出来たことによって 40点程の作品を用意するのに至難なことではなくなった。
そう肩に力を入なければ 何とかなるだろう と楽観している。

「わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」
               読み人不知

病は治癒した訳ではない 退院はしたが 小康しているだけなのだが だから背負える以上の憂いはもたないことにした。