菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

牡丹

2016年04月29日 | 菅井滋円 作品集
牡丹
どこからか牡丹の噂が聞こえて来そうなシーズンとなった。 二階のモノ入れの中に眠っている斎藤猪三夫先生の絵を取り出して 寝室の傍に置き 贅沢な時間を過ごした 胡粉は素材が牡蠣殻から造られたものであるから不透明である。 だが先生の描かれた牡丹は花弁のひとひらひとひらが うすい透明に描かれている 胡粉を用いるのに胡粉と膠の用い方に秘密があるのだろう。  仏画などの昔のエカキが法衣を透明に描いるが 先生の胡粉を操る高度な技法を駆使しておられたのであろう。
先生が描いて居られる途上のことをわたしは知っている その日のことを思い起こしていた。

斎藤猪三夫先生は 明治43年広島県庄原のご出身で京都絵画専門学校 いまの京都芸術大学である 当時は京都絵専と云われた 日本画家で 最も得意な絵は牡丹であり 牡丹を描き続けて来られた。

わたくしは高校生の頃より先生に教えを受けて来た また家へもよくお伺いをし 写生を教えていただいた そればかりでなく薫陶よろしきを得ている そしてイマは長い時間がすぎていった。

先生画八十歳を越えられたころ
「僕は牡丹では徳岡神泉を超えた 牡丹では・・・」
と自信のある言葉であった。 八十歳を超えた先生の言葉は重い 先生の自信を窺うことが出来た。

旅立たれて幾星霜 季節が牡丹のトキを迎ええると この絵をみたくなり取り出し ひとり思いに耽った。


                     


                     

                            斎藤猪三夫 画

旋風

2016年04月22日 | 菅井滋円 作品集
旋風
新緑の御苑を散策した 稀に見る好天でまだ遅咲きの桜が残っていた 山吹はいまが盛りと満開のトキで黄色い小ぶりの花を咲き誇っていた。 中立売御門の辺りにある井戸であり縣井(あがたい)その近くに故人が植えたものである 近衛家の庭址の楓は若葉を吹いていた 九条家の池に小島があり 清盛が造ったと云う その小島には橋をかけられ小さな石鳥居 見事な木立の新緑 軽いスケッチを何枚か描いた。

わたしは最近和尚の勧めが機会に 隣の選佛寺で座禅をすることになった。  背中に喝を頂き自堕落な日頃を省みる機会となった。
入り口にある 以前に奉納した六曲屏風と都度対面することになり 「旋風」の幻覚をテーマにした作品に会うことになる そのたびごと出来れば加筆したいと思っていた そのことについて 奥さんに話して見た わたしの意を了解して頂きこの二~三日間通った 大きなスポンジで大きなガラスのボール十杯分くらいの墨を洗い  描きだして20年くらいなるだろう上乗(うわの)りしている 墨を洗い落した。ゴツゴツしたイメージを流し落とした。加筆も穏やかで柔らかく イメージ通り描き終へることが出来た。












柏野 4

2016年04月15日 | 菅井滋円 作品集


柏野 4
わたくしの入った部屋は 前の7階の一室の隣の6人部屋で 病院は加茂川の西岸にあり この部屋から東山36峯が全て見えた 窓外は鮮やかな鳶の飛行術が見られた。
この度も亦いつものような何回も受けたオペと同じであった。   やがてその日もキャスターに乗せられて手術室へと・・・

退院3日柏野のアトリエへ通いだしていた かつて絵を描いていたまま 手の付けられない状態である過ぎ去った日が そのまま時間が止まっていた。
兎に角整理には長時間必要だと思はれた 絵の具 筆 モチーフの雑器などを家の方へ持ち帰り ゴミを捨てに通った コドモが賽ノ河原で石を積み上げ その石を鬼が壊す  また積み上げる  果のない作業のように思はれた。
これは長期戦だ もう一度戦術を組み換える必要がある本棚 水屋などを含めやり直そうと思い出した。

退院から10日 F氏の車でK女史と三人で亀岡の公孫樹を見に行こうと話していたが 生憎予報では下り坂で 雨が気使はれた 途上予想に反して陽が斜めから射しており 車は七条を東に向かった そこで国道24号線を南へ南山城の蟹満寺へと向かうことにした そして恭仁京へ向かった。
道路標識に知らない寺の名前があり 曹洞宗地蔵禅院・・咄嗟にそちらへ向かった。
寺は山の中腹にあり 樹齢300年と云うしだれ桜 眺望はおそらく三重県の山並みであろうと思う遥かに望まれた 寺の縁を書かれているモノによると 創建は奈良時代の古いものだという。
草刈り機で老人が草を刈っていた。
奥さまと思える女性が その寺の由来を語った わたしは
「この辺りは橘諸兄さんの地所ですか・・・」
「そうです 橘諸兄公がおいでになった所です」
そのおくさんに挨拶をして別れた。
その曹洞宗地蔵院の脇にものすごい階段 鞍馬寺の階段を思わられたが 病後のトレーニングと登った石鳥居があり玉津岡神社 息を吞むような能舞台 碩学の白数正子さんでも見ていないだろう拝殿を裏の緑の背景の鎮座していた。
誰も居ない森閑とした威厳 わたしは鶴と松の蟇又(かえるまた)をスケッチした。
われわれは山を下り 橘諸兄顕彰碑 蟹満寺 木津川の流れ恭仁京でスケッチをした 予報に少し遅れたが 雨が降り出し帰途に着いた。


   




柏野 3

2016年04月08日 | 菅井滋円 作品集
柏野3
その後法務局から連絡があり 測量の人が来られた そして測量にわたしも立ち会った そのさい思いついたことだが アトリエをこれからどうしようか・・・さまざま考えを回らせた。
問題はアトリエのことよりも 残された作品の山のことである 生きる出あろうその間の問題であり 過去に描きだし長時間に亘って描き切れていない 多くの作品のことである 結果として夥しい途上の宿題が待っているが いずれしても整理だけはしなければならない。
わたしに与えられた時の狭間で 自らへの問いかけでありまことに悩ましい。
それにくわえてオペを前にして避けることができないのは 入院まで空白のトキがイヤなのだ。
そのことがわたしを苦しめていた 目の前の時間をどうかして消してゆけないかと思っていた。
どうにもならないことは十分承知していながら そのトキを消しゴムで消し去りたい それには旅に出ようと思い出していた。
何処へ向かうのか 穏やかな景色はわたしには似会はない。
北へいこう 知らない町へ厳しい風景を求めていた・・・・わたしは敦賀に行こうと思いだしていた。

京都駅から快速がある 敦賀~京都間は1時間あまりで着く そして準備もせず敦賀への切符を手にしていた。
湖西線はたちまち敦賀に着いた そして駅頭で立ち喰い蕎麦をたべ タクシー気比の松原へと行った タクシーをまたし気比の松原に立つ たしか・・・?この松原は・・・長谷川等伯は「松」を描いた・・のだったかと思いだした等伯の八曲二双の屏風「松図」・・・背景の朦朧とした墨の用い方は砂原の・・・そして湾内の海辺が・・実景は対岸のブルーグレーの淡い色・・・思索の旅となった。
タクシーはそして気比神社へと 二礼二拍手し参拝を終えた ここへは松尾芭蕉も参拝して芭蕉の月を詠んだ句が銅版。  境内の参拝者は幾組かの老人がいたが 気比神社の絵馬堂は誰も訪れる人は誰もいないが 絵馬堂にある絵馬の扁額があり江戸時代武将の図 日露戦争の戦勝を語るもの さまざまがあり その立派な幅広い板が用いられている そしてこびり付いた胡粉の執念のような 僅かに残る顔料には感銘を深くした。

国宝になっている鳥居。  街を彷徨った  街はことごとくシャッター街となっていた  たまたま街中の立ち寄った喫茶店に近隣の人たちが集まっていた。
店主は彫刻を楽しむ人であった 孤客は未知の街の人々と語りあった。






                                   気比神社絵馬堂の絵馬