菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

九月十三夜

2015年10月30日 | 菅井滋円 作品集


霜満軍営秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷懐遠征

霜軍営ニ満チ 秋気清シ
数行ノ過雁 月三更
越山併セ得タリ能州ノ景
遮莫(さも)アラバアレ 
遠征シテ懐フコト家郷

九月十三夜   上杉謙信 七尾城跡にて

    月三更=深夜11時~1時の月


秋草文

2015年10月23日 | 菅井滋円 作品集






                                七尾城跡


  秋草文
閃きを写し取った秋草文は 珠洲焼と云って能登半島に かってあった文様を持つ陶器で ヘラで粘土を引っ掻く 傷跡は線刻され永遠化する 高温で焼かれ美しい陶器となって・・
この珠洲焼を閲して見ると 石川歴史博物館に何点かあるらしい その陶芸を見たいものだと 珠洲焼探訪の旅に出た。

金沢市へは温泉の行った道々で通りすぎるのに 立ち寄ったくらいであり 久しぶりと云うより 始めて来たに等しいところであった。
行ってみると 石川県立博物館は赤レンガの陸軍弾薬庫跡地であって 何棟かあるレンガ造りの壮観な建物 をリニューアルしたもので 常設展の中に一点が秋草文とは違ったモノで珠洲焼があった かなり大きな水瓶で 一抱えくらいは十分あるだろう 直径50~60㎝ 高さ50~60㎝くらいであろう リズムある景色(ヘラのアト)を持って堂々たる表情をして 胡坐を組んだように座っていた 想像していたものを超えるでき栄え と大きさに感激の対面となった おそらく水瓶であろう。 400年前に滅んだという1100度の高温で焼かれ 須恵器の系譜を持つ 幻の土器にわたしの目は満ち足りた。
係の女性は気の毒そうに
「イマ出しているのはこの一点だけなのですが・・・」
わたしはこの一点で十分であった。

外には両手を広げたくらいの幅を持つ 6000年前の栗の木の柱 弥生の土器 この弥生土器の素晴らしいのに会うことが出来た。

落ちついた街並み 木々の霜葉フラリと入った古本屋。
わたしは以前からここの住人のように思えた。





落ち穂拾い 10

2015年10月16日 | 菅井滋円 作品集
 

落ち穂拾い 10
早暁小用に目覚めた 時計を見れば4時少し過ぎたばかり起きるのには早すぎる 無聊を埋めるのに バッハのバイオリン・パルティータを床で聴いた。
音がいつ途切れるかと気になりだした 果てなく長々と尾を引く  奏者の呼吸のように・・

彼が死んだ 小学校5年生のトキ彼に会った 長い友である  彼をおくりに葬儀所へ行った。
貧しい時代であった 彼の家でイモスルメを喰ったのが思い出された わたしの周囲の人々はみな逝った 人が殊に 老いて生きるとは 独りになることなのだ そういうことか それは知っているが・・・

わたしに個展を薦めて呉れるひとがいる ここに至ってわたしが・・どうでもよいことになっているのだが 何度も薦めてくれる その心情を考える  「これ以上君に薦めないよ!」という声が聞こえそうだ。


ひとのいのちは長いのか・・短いのか・・「落ち穂拾い」をしてみたが 迷ったり間違えたり オソロシイことだ。
絵は困ったことに足跡(あしあと)が残るのだ むつかしいのはそこだ。
恥ずかしいような 足跡が・・・




落ち穂拾い 9

2015年10月09日 | 菅井滋円 作品集


落ち穂拾い 9
父は1904年大津の生まれで コドモの頃玉屋町のカッパと他人から云われるほど 水泳が上手かったと話していた 嘘ではなさそうだ。
櫓も上手く漕いだ 絵の才能は琵琶湖に大型の汽船が浮かんだトキ 小学生の代表として その汽船に乗り スケッチに行ったと云っていた。
母の郷里へ行ったとき トイツァンという従妹の亭主が――その人とは親子ほどわたしと年齢差があったが――わたしに
「アンタのお父ッあん かなんヮ バスが来る時間やのに 『トイツァンちょっと待ってャ』 と云ってのんびり 写生しャハル(敬語)・・・ワシ(自分)はバスが来るのに・・ひやひやしていた・・」
と笑っていた トイッアンとは村で呼ばれていた通称である 懐かしい。
どうでもよい話だが ここでわたしが語っておかないと 消えてしまう話しである こんな話は外に山ほどある それを語るスケッチ・ブックは何冊か残っている。

応召で2度衛生兵として参戦した 2度目の戦では終戦を済州島で迎えた だから幸運にも早く帰還できた。
父の背囊(はいのう・リック)の中一杯に軍用ワラバンシがあった 済州島のスケッチである。
煙草を燻らす老人や 水を汲む婦人などのスケッチはよく描けていた これらのスケッチをどうしようか・・と悩んで取り敢えず整理した。
立命館大学平和ミュージアムが引き取って呉れた。

74歳の人生であった 懐かしい話しをして見た。




落ち穂拾い 8

2015年10月02日 | 菅井滋円 作品集


落ち穂拾い 8
少年のころ奈良電(ならでん)と云う電車が走っていた 京都から奈良まで2~3時間ほどかかった イマの近鉄電車のコースがほとんどそのままが奈良電のコースであった。
京都駅を出発してまもなくみえたのが 小椋池(おぐらいけ)と云って巨大な池の干拓地であり 広大な田畑となっていた。
奈良電の車窓右手に典雅な宝塔と社寺の影があった それは少年のわたくしを惹き付けられていた その残像はいまも脳裏にある。

何年か前地下鉄が開通したとき 終点は竹田であり ちょうどその地であった その典雅な宝塔を見ようと出かけた そこは近衛天皇の御陵と 安楽寿院寺があった 少年のころ見た宝塔をまえにして 夭折した天皇の命運をおもった 典雅な塔を目の前に おおきな感動を覚えた。

霧の奥にみた少年のゆめは 全体として地下鉄の開通で距離は近くしたが そこには往時の面影はなくなっていた。

今年の夏の暑さは わたしを運動不足にし 筋力を奪った その筋力の回復のため あちこちと歩きまわった 竹田へも行ったが 以来まちなみはさらにその地を 衛星都市としていた その表面をコンクリートで蔽い おおくはマンションだのスーパーで 古色を帯びたものは この地から隠した わたしは違ったまちを放浪していた そこを通る人に近衛天皇の陵を尋ねなければならなかった 住人も世代も変わり わたしは浦島太郎になっていた。
それで年配の人に聞いてみた 歯痒い思いで回り道をしながら陵までたどり着いた 典雅な宝塔は往時とかわらずその姿をとどめていた ここではトキは停まっていた。

ここでもう一つ思い出したコトがある しめ縄を張った小学校である。
小さな都市の小さな一隅に 一対の欅が門になった小学校である その小学校を尋ね尋ねて行き やっとたどりついた しかしここは屈んで休む場所もなくなっていた。