菅井滋円展 ―形象の孤独―1
榧
1969年わたし第一回の木屋町画廊でした その中案内状で
「わたしの絵は好きなように描く そのため蓮の台の上で天上音楽を聞きながら 惰眠することは御免だ わたしは 針の山のへ登る方を選びたいと・・・」
そのトキ32・3歳の若造は いま八十歳のジジイになった その案内状はまことに 脇の下からヒアセのでる思いで読み返してみた。
自らの愚鈍者を省みる機会となったが なるほど・・そのトキの思いはイマも変ってはいない この頑固者メ と呆れ果てるばかりだった。
この榧(かや)の木の絵は130㎝×130㎝はおおきなものなのだが はっきり覚えてはいないが50歳台ころに この絵を描いたのだろう。
その後長く病気になるのだから 今回の個展は「病」からの出発と云うことになる。
そもそも小野の小町が植えた百本の榧が山科の地にイマなお4本残されている この木の作品はその中の一本で その姿をイマに残す証人のように思える。
わたしを顧慮してくれた人々の忠告を省みず この愚鈍な奴は ひとりその群れから去った。
フトした時に機会があり鶴身幸男氏と再会した 十年ぶりくらいの再会だった また彼の個展を神戸で見たり 彼がわたしの家へバイクで訪ねて来たりし その際きまってわたしに云う言葉が
「菅井さん これで個展を開いてはどうか!」
と云って勧めてくれた 彼とヒルゲートを訪ねた日そこで 来年は予定がイッパイ その翌年と云うことにオーナーの言葉であった。
よく考えると2年半後のコトは肝臓に腫瘍を持っているわたしには2年半は約束できない しばらくして その病は再発し府立病院の病床にあったが 処置が終わりその電話を 聞くとオーナーからもので1月26日から31日の一週間 わたしのために日を造っておいて呉れた わたしのオペは終わていたのでその申し出を快諾した。
その知らせをメールした鶴身氏の忠告を受けることとなった 彼は喜んでくれた。
だが彼も亦この作品は見せたことはないのだが どの様な反応するか興味がある。