自燈明・法燈明の考察

【私の近代史観】幕末から明治維新①

 前回までの記事では、日本国憲法について少し私見をまとめてみた。今回は日本という国が、近代史の中でどの様な事に遭遇し、どの様な立ち居振る舞いをしてきたのかを見ていく。ただし歴史というのは幾つもある事実から、その本筋である真実を読み取るというものだと思うが、これが中々難しいのである。学校教育の中では、教科書をもとに、今の日本が考えている歴史観を教えられえる。しかし歴史の真実を理解するためには、まず自分でその事実を学び、思索する事がとても重要と私は考えている。

 また日本の近代史観を考える上で、理解しなければならない事がある。それは欧米の歴史についてである。日本が近代国家を意識したのは幕末の事で、歴史的には江戸湾(現在の東京湾)にアメリカの東インド艦隊を率いたペリーが来航した時(黒船騒動)からと言われているが、この当時のアジアは欧米列強の植民地化が進んでいた時代であった。ではそもそも何故、欧米はアジアに進出したのか、その点について歴史を振り返ってみる。



◆大航海時代
 15世紀から17世紀、ヨーロッパ人によってインド航路や新大陸到達などによって、世界の一体化が進んだ時代を「大航海時代」と世界史の中で呼ばれている。
 大航海時代は、まずポルトガルによるアフリカ西海岸進出に始まり、インド航路開拓に成功し、それに対抗したスペインが、思いがけずアメリカ大陸を発見、さらにマゼランの世界周航で航路開拓はピークに達したと言われている。この大航海時代とは、ポルトガルやスペインの最下層の人であっても、航路を開拓できれば億万長者になる事も可能な時代であった。その事から、多くの人達が帆船に乗り込み、航路開拓の為に大海原へと漕ぎ出したと言う。最近話題となった映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」などはその時代の映画であり、その活発な時代をよく表現していた映画だろう。
 そして17世紀以降はオランダ、イギリス、フランスが主権国家体制を完成させ、これら発見された航路に乗って勢力圏拡大に乗り出す様になり、17世紀以降は資本主義、さらに19世紀からは帝国主義となり、始めは直接的な領土的支配を強めていき、これらの国は激しく争いながら植民地支配を強めて行った時代なのである。

 16世紀に日本に火縄銃が伝来したのも、またキリスト教が伝播してきたのも、この大航海時代というのが背景にあった。しかし歴史ではその後、日本では徳川幕府時代による「鎖国政策」により海外との接触を断っていたと教えられている。ただしこれは実は少し違っていて、江戸幕府は鎖国をしていない。正確には海外との交易は江戸幕府がほぼ独占しており、他の藩が海外との交易を直接する事を原則禁じていたというのが正確な事だと言われている。

 現に江戸幕府では、長崎の出島を窓口として中国やオランダとは交易を行っており、その他にも朝鮮の間には対馬、琉球との間には薩摩、また松前にも交易窓口があり、幕末までの期間、これら四か所をを通じて海外との交易と、世界情勢を情報として得ていたのである。

 恐らく江戸幕府としては、国内統制の一環として海外との交易によって、各藩が資金を蓄え、情報を得て力を付ける事を警戒していた事もあって、この様な政策を取っていたのではないだろうか。その事から海外との交易などを「御禁制」とするという政策を取ったと思われる。

 ちなみに、いま学校で教えられる「鎖国」という言葉は、長崎に在住していたオランダの通訳が使用したのが始めと言われている。

◆ペリー来航
 ペリーが浦賀に来航する背景には何があったのか、少し触れておきたい。
 イギリスで産業革命がおこり、欧米の工場やオフィスでは夜遅くまで稼働する様になり、その工場の潤滑油やランプの灯火の油として、おもにマッコウクジラの鯨油を使っていた。この需要を満たすため欧米各国では世界中の海で捕鯨活動を盛んに行ってた。日本沿岸は「ジャパン・グラウンド」と呼ばれる伊豆諸島や小笠原諸島が好漁場として知られていた。当時の捕鯨船では船上で鯨油の抽出をしていたが、その為に大量の薪と水が必要となり、長期航海用の食糧や薪、そして水を補給できる拠点が求められていた。これはアメリカも例外では無かった。

 アメリカは1846年にイギリスとの交渉で、オレゴンの南半分を領土としており、同じく1846年には米墨戦争(メキシコとの戦争)によりカリフォルニアを獲得、太平洋へ接する事が出来て太平洋国家となった。この事からアメリカは巨大市場として清国との貿易開拓を国家的な目標と定めたのである。
 アメリカ西海岸から清国に至る最短ルートは、西海岸から北上し、アリューシャン列島、千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海に至るというもので、この為に津軽海峡に面した松前に補給拠点を置く事を企図したと言われている。

 1851年5月29日、アメリカ大統領のフィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶ事を目指し、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使として任務を与え1851年6月8日に極東に向けて、蒸気船フリゲート艦「サスケハナ」を出航させた。しかしオーリックばサスケハナ艦長とトラブルを起こして解任、後任として新たに代将マシュー・カルブレーズ・ペリーが遣日特使として任命されたのである。

 ペリーは1852年11月24日、蒸気フリゲート艦「ミシシッピ号」の乗り込み1隻でノーフォーク港を出港、香港と上海で艦隊の他の艦と合流すべく大西洋を渡り始めたのである。そして翌年5月4日に上海に到着後、艦隊旗艦を「サスケハナ」に移して艦隊を整え、まずは琉球王国の那覇に向い、5月26日に到着した。その後ペリーは小笠原方面を探検し、小笠原諸島の領有権を宣言したが、これにはイギリスからの抗議を受けただけではなく、ロシア船舶も南進してきた事から有耶無耶となってしまった。

 その後ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は1853年7月8日に、江戸湾(現在の東京湾)の浦賀沖に到着したのであった。

(続く)


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