自燈明・法燈明の考察

国について(Part.1)

 鎌倉時代、日蓮は立正安国論を著して国の安寧を得るには、国に正しい事を打ち立てる事が大事だと持論を展開しました。では日蓮が正しいと考えたのはどんな事かと言うと、それは当時の仏教界に対する厳しい指摘でした。
 当時の仏教界は鎌倉幕府の文化宗教政策に乗じて私腹を肥やし、本来仏教が目指していた鎮護国家の仏教とはほど遠い、利権を中心とした覇権争いに明け暮れていたのです。これについては正嘉の大地震や、当時の災害と、鎌倉に建立された大寺院の数から類推できます。
 日蓮はその仏教界を糺し、法華経を中心にした仏教を打ち立て、僧侶はそれを理解し鎮護国家の祈りを行い、人々はその法華経を中心とした仏教を信じる様にする。そして幕府はそういった宗教文化政策を推進する。それにより国は安寧になり繁栄すると日蓮は信じていたのでしょう。

 日蓮が立正安国論で求めたものが「鎮護国家としての仏教」であり、その事は立正安国論で多く引用した経典が、金明光経や涅槃経、法華経が鎮護国家三部経であった事から、私はその様に解釈をしています。

 日蓮は「国」という事に愁いを持っていました。何故なら「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん」と立正安国論にある様に、人々が生活をする場として国が大事であり、その国が無くなるという事は住む家も無くなる事を意味し、結果として人々が生活する事もままならなくなると日蓮が理解していた事が解ります。

 この「国」という概念は時代と共に変遷します。鎌倉時代には豪族が領地を支配し、その豪族を取りまとめる立ち位置に鎌倉幕府がありました。しかし当時の日本は幕府の統治とそれまで統治者であった朝廷の二重構造となっていました。
 しかし現代では人類社会は国家という単位でまとまっており、その国家の政府が内政や外交を取り行っています。現代の国家の定義は「一定の領土と国民と排他的な統治組織とを供えた政治共同体」と言われており「一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的ない公共的共同社会」と言われています。
 この「国家」について論じられている哲学や学問は多岐に亘っており、ここで取り上げてしまうと話は拡散してしまいますので割愛しますが、ひとつ言える事は、国家に属する国民は、国家が滅んでしまうと、今の人類社会に於いても生きていく事が困難な状況に陥ってしまうという事は間違いありません。

 この事ついて、近代で一つ例を挙げると、ソマリアという国を挙げる事が出来ます。

 ソマリアは東アフリカのアフリカの角と呼ばれる地域を領域とする国家ですが、多くの人がこのソマリアについて知っている事は海賊ではないでしょうか。このソマリアは1960年にイギリス領ソマリランドが独立し、その数日後にイタリア信託統治領ソマリアと統合する形で誕生しました。しかし独立の数年後にクーデターが発生し、長く独裁大統領が支配する事になりましたが、国内各地で軍閥が発生し独裁大統領政権が倒されました。1991年に勃発した内戦により国土は分断され、事実上、ソマリアは無政府状態になってしまいました。
 このソマリアには漁業により生計を立てていた漁民も多くいましたが、この無政府状態になってしまった事によりソマリアの漁場は近隣諸国から奪われてしまい、漁師は仕事をする事が出来なくなってしまいました。今ではソマリアの海賊と呼ばれていますが、元々は内戦に乗じて地元漁民の意向を無視して操業する外国のトロール船への抗議行動だと言われています。しかし年を経るとその海賊行為が一種の「産業」として発達し、そこにアメリカ資本が参入したのです。要は海賊に投資する事で大きな利ザヤを得られる事を知ったアメリカ資本が海賊を投資先にしました。結果、ソマリは海賊は武装を強固にし海賊行為をより活発化させていきました。
 しかしその後、2009年から2011年にかけて年間200県の海賊行為がソマリア近海で発生していた事もあり、外国船が各国の軍艦を護衛に付ける様になった事から2020年には一旦海賊はゼロ件になりました。しかし2024年6月現在、累計30件以上の海賊行為が発生しています。

 要は国家が正常に機能しなくなってしまうと、周辺国から領土や領海、またそこにある資源を荒らされてしまい、結果としてその国民は生活する糧を失ってしまうという現実が、今の人類社会にも未だあるのです。その意味からも、やはり国家が正常に機能して、自主独立の国家として存在する事が国民にとって極めて大事である事が解ります。

 恐らく多くの国々では、この国家が自分達の生活を少しでも安全に、またできるだけ豊かに送るためにも重要だと理解し、そこから自分達の所属する国家が極めて大事だという事を理解しています。だからその姿勢として、その国が統合する事を象徴する「国歌」に対しては一定の敬意を以って歌い、その国家の舵取りをする政治家についても厳しい目を向けているのでしょう。また自分達の国を主権国家として独立する為に存在する「国軍」の兵士についても一定の敬意を以って接していると思うのです。
 ただし全世界共通でこの様な姿勢で国家に対してそれぞれの国民が接しているという訳ではありません。特に政情不安定な国、また他民族や他部族で統一性を欠いている国においては、そんな状況にない国も存在します。しかし一般的に先進国と呼ばれる様な国家や、それに準じる国家の多くでは、この国家という社会的共同体に対して、国民は重要性を認識しているのではないでしょうか。そしてその国の政治家たちも、自分達が預かる国家の自主独立の為に様々な事を考え行動していると思うのです。

 しかし近年、日本国においては政治家も国民も、こういった事をあまり重要には捉えていないのではないかという行動が多く見られてきています。この事について次回から少し書いてみます。


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