さて「心のかたち」について考えてみます。
私達は普段、何気なく生きていて日々生活をしています。そんな時に「心とはなにか」という事を聞かれたとしても、答えられる人は居ません。何故なら心とは自分自身であって、人は自分の周囲の環境や人間関係、またその中で起きる心のさざめきの様な感情を感じる事はあっても、その主体である心を意識する事はありません。
例えてみるならば、人は他人の姿や形を見る事ができても、自分自身の表情や姿、形を見る事が出来ませんが、これと同じ様に自分自身の心を観る事が出来ないのです。唯一、自分の姿や表情を見る事が出来るとすれば、姿見の鏡などを用いる事で可能となります。同様に自分自身の心を知るというのも、それなりの手段に依らなければなりません。
仏教では、これに近しい事を「観心」と言います。「心を観る」という事ですね。そして具体的な方法としては座禅等による内観という修行です。中国で天台宗を開いた天台大師智顗は、内観による修行を行っていたので、中国で禅宗と言えば、天台大師の時代には天台宗の事を指すほど、天台僧は座禅による内観を行っていたそうです。ちなみに日本で言う禅宗は、当時の中国では達磨宗と呼ばれていたそうです。
出家して仏教を修行するのであれば、この「心のかたち」については、修行の中で観る事が出来るかもしれませんが、社会の中で日常生活を送る私達は、この心のかたちを意識する事もありませんし、日常、触れる事もありません。
まあ心について思いを馳せずとも、私達の日常生活では何も問題は起きません。ただし人生の中で苦しい時、また行き詰った時に、人はこの心の事について考え始めたりします。この事について日蓮は以下の言葉で語っています。
「浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」
(妙心尼御前御返事)
ここで「病」と言ってますが、これは直接的には「病気」を指す言葉ですが、意味として「 気がかり。苦労の種。」という意味もあります。つまり順風満帆であれば何も考えないのですが、人は人生に躓き、悩みを感じた時に、自分自身の生きる意味について考えはじめ、それと共に「自分とは何か」という基本的な疑問を持ち始め、そこで初めて心について考え始めるのでしょう。
ここで少し話を変えまして、チベット仏教では、この心の事について以下の事が説かれています。
「死はわたしたちが最終的に自分と向き合う瞬間である」
「死の瞬間に、自分という存在の二つの相-究極の本質と世俗の本質、真の在りようと今世での在りようーが明らかになるということだ」
「心身の一切の構成要素は、死の過程で崩壊していく。肉体が死ぬと、五感や微細な四大元素が溶解し、さらには心のなかの通常の相が、怒り、貪り、無知といった煩悩とともに断たれる。こうして今世で悟りの心を覆っていたものがすべて取り除かれると、心の真の在りようを妨げるものは何一つなくなり、雲一つない澄み渡った空にも似た、根源なる究極が顕れる」
チベット仏教とは、もともとチベット地方にあった「ボン教」という土着宗教と、大乗仏教が融合して成立したもので、生きる事が大変困難な中で生きてきたチベットの人達の智慧がふんだんに組み入れられています。特に死を身近に感じていたチベットの人達の教えである事から、死生観については、かなり深く思索されているものであると言えるでしょう。
近年、中国では民族統一化という事から、このチベット仏教の伝統に介入し始め、改変を推進している事は知られていますが、それはとても残念な事です。
このチベット仏教では、人が臨終の時は、この心の本質に巡り合うチャンスであり、そこで心の本質と同化する事で「輪廻からの解脱」する事が出来ると説いています。その為にチベットの人達は、生きている時間はその為の準備期間と捉え、修行に励むというのです。
日蓮もこの臨終の事については、以下の様に書き残しています。
「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」
(妙法尼御前御返事)
この年齢になって思う事なのですが、人生を生きる為には心のかたちを理解する事がとても大事であり、その心のかたちを見る事の出来るタイミングとしては、人生の中では「臨終」という場面があるようです。ただしこの「臨終」について、人は自分自身で経験する事が当たり前の話ですが出来ません。(経験した人の多くは、この世界には戻ってきませんので)
ただし近年になり、「NDE(臨死体験学)」という様な分野も出てきていますが、世の中には多くの臨死体験の経験者がいて、その内容について記録として残されてきています。
という事で、次回からはこの臨死体験という側面から、心のかたちについて、少しアプローチをしてみたいと思います。