さて、今回は法華経の思想性について書いていきます。
前回は見宝塔品で多宝塔の出現と、多宝如来の出現という壮大な物語の部分について紹介しました。そして説法の場は、現実にある場所の霊鷲山から虚空という非現実の場所に移動します。この見宝塔品では仏という事のスケールの大きさを見せつけるという意味と共に、その仏を表現する場として虚空という場所が必要であったという事かもしれません。
では虚空とは単に「空中」という事なのでしょうか。そこについて考えてみると、私はこの「虚空」とは、人の心の中にある世界の表現なのでは無いかと考えたりするのです。単に空中という事では、これ以降の虚空会で展開される世界は表現出来る内容ではありません。この意義については、一人ひとりが思惟する事の様に思えます。
◆提婆達多品について
見宝塔品第十一の次に来るのは、提婆達多品第十二なのですが、この内容は法華経とは別物に見る必要があるのです。
実は聖徳太子の妙法蓮華経義琉や、その聖徳太子がこれを著す際に参考としたと言われる法雲の法華経義記に提婆達多品が存在しないのです。また妙法蓮華経の流れや、この提婆達多品の内容を見ると、文脈上、実に多くの違和感があるのです。その違和感とは具体的に以下の事です。
①龍女の成仏が語られてはいるが、その成仏をするという事について、舎利弗が以下の様に語っています。
「是の事信じ難し。所以は何ん、女身は垢穢にして是れ法器に非ず、云何ぞ能く無上菩提を得ん。」
これ、簡単に言えば「お前は女で穢れ、法器でもないのに、何故成仏なんてできんだよ!!」という言葉で、これは単に難癖です。見宝塔品までの間でも、釈迦の弟子達の中の女性についても成仏の記別を受けています。また自らも釈迦の真意を理解したという舎利弗が、こんな言質を出す事は、私には到底理解できません。
②龍女の成仏について説かれていますが、この成仏の展開もオカシな話なのです。
「爾の時に龍女一つの宝珠あり、価直三千大千世界なり。持って以て仏に上る。仏即ち之を受けたもう。龍女、智積菩薩・尊者舎利弗に謂って言わく、我宝樹を献る。世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言わく、甚だ疾し。女 の言わく、汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならん。当時の衆会、皆龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。」
ここでは龍女が宝珠を釈迦に供養し、釈迦はそれを受け取る事で、男子に身を変えて即身成仏したというのです。この提婆達多品までの「成仏」というのは、全てが遠い未来の成仏への「約束(記別)」なのですが、何故か龍女は「宝珠」を取り出し、それを釈迦に供養した事で、何故か瞬間に即身成仏をしてしまうのです。
先の聖徳太子の法華経を解釈した文献にも提婆達多品の記述はなく、しかもこの文脈上のオカシさを考えた時、果たして法華経の当初から提婆達多品というのはあったのか、そこに大きな疑念が出てしまうのです。
そんな事を考えながら調べてみると、実は「薩曇分陀利經」という、法華経とは別の経典に、この龍女の説話がそっくりそのまま書かれているというのです。ではこれにどんな意味があるのでしょうか。この法華経に釈迦と生涯に渡り対決し、後に無間地獄に堕ちた極悪人の名前を冠した品(章)が在るという事は。
実は釈迦滅後にも仏教の中に提婆達多教団というのが存在したのは、現代において判明しています。実は大乗仏教が勃興した後、ある段階で仏教の経団と、この提婆達多教団は、どこかで和解し、その証としてこの提婆達多品が法華経の中にねじ込まれたという事が、最近になって言われています。もしかしたら妙法蓮華経訳者の鳩摩羅什も提婆達多教団の一員では無かったかという説まで出てきています。
「ではこの提婆達多品で説かれる悪人成仏とか、女人成仏はどうなるのか?」
そう思われる人もいると思いますが、久遠実成という事が説きだされる事で、そんなものは簡単に解決してしまいます。そう考えると、この妙法蓮華経の成立という事については、もしかしたら再考が必要なのかもしれませんね。
単に「釈尊直説の経典だから」とか「最高の経典だから」。また天台大師や日蓮もそう語っているから法華経は尊いという事でもないでしょう。
私はこの提婆達多品の事を考えると、単に法華経を「信仰」というレベルで盲目的に信じるという事や、日蓮が末法の御本仏だから、彼の語った事を無条件に受け入れるという事ではないと思えたのです。
(続く)