こんなニュースを知りました。
このニュース記事では、2019年11月6日に世俗的な歴史的展示の一環として、ローマのコロッセオ入り口に、モレク像が展示されたと言います。
このモレクとは何かと言えば、Wikipediaに依ればざっくりと以下のものだそうです。
「男性神。モロク(Moloch、[ˈmoʊlɒk])ともいう。「涙の国の君主」、「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。ラビ・ユダヤ教の伝統では、Molochは生贄が投げ入れられる火で熱されたブロンズ像とされる。」
旧約聖書によれば同神の祭儀は小児犠牲を伴い,これは周辺世界からイスラエルにも浸透して,ユダ王国の王アハズとマナセは国家の危機に際してその子を犠牲にしたというのです。ヤハウェ主義者たちはこの祭儀慣習を激しく攻撃し,律法で禁じたと言われています。ここで云う「ヤハウェ主義者」とは、キリスト教を含めた一神教の信奉者と言っても良いでしょう。
しかし2019年となり、バチカン市国の足元のローマにこのモレク像が展示された事に、一部のカトリック教徒は、異教の神モレクがコロッセオの入り口に建てられていることに心を痛めていると言われています。このモレク像の展示はアマゾンシノドスの開幕 9 日前で、異教の女神「パチャママ」がバチカン庭園で教皇フランシスコとトップの出席の下で開催された後だった事もあり、多くの論争を呼んだそうです。
まあそもそもモレク神に対する祭儀慣習を激しく攻撃してきた、カトリックの最高位である教皇が、いくら過去の歴史の展示物であったとしても、それを容認したのは、どういった意味があるんでしょうね。
このモレクにはどの様な意義があるのでしょうか。元々モレクは太陽神であり、人々を災害から守ると信じられていました。その代わりにモレクを讃えた牛の姿のブロンズ像をつくり、その空洞の腹で人間(子供)を燃やすことで生贄を捧げる必要があったというのです。これは人々の生活を守るために、幼い子供を燃やす必要があるという事で、いわば目的の為に相反する事を敢えて行わなければならないという事を象徴しているの様にも思えます。
考えてみれば、人類の歴史の中で、こういった相反する事というのは常に存在してきました。
戦争という人類の歴史上で営々として現在も続く行為もその一つでしょう。国とは本来、国民の生命と財産を保護する役割を持つものですが、その国がそれを維持する為に、あえて国民を死地に追い詰めていく行為が戦争です。また経済の面でも同様の事が言えます。ステークホルダー(利益関係者)でもある従業員の利益を守る為に会社は存続すべきですが、その従業員の事を守り切った企業は、結果として経済競争の中では消えてしまいます。
つまりこういった人類の行動の相反するモノの象徴として、モレク神というのはあるのかもしれません。
今の時代、こういった事が拡大し続けている気がしてならないのです。
例えばLGBTQと言って、同性愛者や性同一性障害者の権利を守ろうという運動が国際的に大きくなり、日本国内でも自公政権がG7までに法制化に躍起となっていますが、どうもそれに付随して起きている事、例えば女性トイレの廃止といった動きは逆に同性愛者や性同一性障害者に対する社会的な敵視意識を根深く大きな事にしてはいないでしょうか。またSDGsと言って「持続可能な開発目標」が如何にも地球環境の改善につながる様に思われていますが、結果としてこのSDGsへの取り組みが、人類の目の前から問題の本質を遠のかせ、逆に環境破壊に拍車を掛けているという事はありませんか?
大乗仏教では「一念三千」と呼び、人の瞬間の心の中には、「五陰世間(個人レベル)」の事と、「衆生世間(社会レベル)」の事が、互いに関係性を持ちながらも、それぞれ異なる動きとして出てくる事を表していて、結果、私たちが生活する社会(国土世間)とは、この衆生世間の動きで作り出されるという事が述べられています。
人類の一人ひとりは平和を求め、安寧な生活を求めています。しかし人類とは社会的な生物である事から、社会の動きに引っ張られてしまいます。それはまるでモレク神に対して自身の子供を差し出す様な感じです。結果、人類は一人ひとりの願いとは別の行動に駆られてしまい、求めている平和や安寧な生活を手に入れる事が出来ていない。そういう事ではないでしょうか。
2019年の出来事ですが、ローマにモレク神の展示が為されたというのは、そういう事の象徴的な出来事に様にも思えてしまいました。