思うに今世紀に入ってから、この世界は様々な出来事が起きており、混乱の度合いが増していて、収束するどころか拡大する方向にあるような気がします。
「ボイルド・フロッグ(煮られるカエル)」宜しく、今世紀に入り少しづつ状況が変化し、その変化の度合いが少しづつ大きくなっています。しかし多くの人々はその事に気付いていないようです。
具体的に言えば、日本国内での放射線に対する考え方は、福島第一原発事故により、今では大きく変えられました。市場原理主義により世の中の仕事に対する考え方、収入も変えられてしまい、新型コロナ禍では人との距離のとり方、薬害に対する考え方も昔とは全く様変わりしてしまったと私は感じています。
この事について、皆さんも少し落ち着いて俯瞰して考えてみれば、解ると思います。果たして今の時代の「新常識」は、昔の常識と比較したらどうなのか。そろそろ考えてみる時に来ているのかもしれません。
さて、今日のお題ですが「思想・哲学」と「宗教」について、更に考えてみたいと思います。
以前の記事「哲学と宗教そして題目 - 自燈明・法燈明の考察」でも少し触れましたが、私は創価学会の活動を止めて、仏教の振り返りをしたのですが、そこで判った事は、本来、仏教とは「お縋りする為の宗教」では無かったのではないか、という事です。
前の記事では「思想・哲学」と「宗教」の違いについて、社会的な組織という側面があるものを「宗教」といい、それが無いものを「思想・哲学」と分類しました。ただこれは一般的な観点からの話であり、その他にも別の違いがあると、私は考えています。
それは「宗教」には、超自然的な力を容認し、それによって自身や社会の救済を懇願する姿勢というのが、宗教にはついて回るのでは無いかと言うことです。
欧米のキリスト教もしかり、おそらくイスラム教においても「神(唯一絶対神)」に対しては、この超自然的な力があると考えていますし、仏教に於いても同様だと思います。
私はキリスト教徒でも無いし、イスラム教徒でもありませんが、仏教において、仏菩薩の超自然的な力(これはご利益を与えるという事)を信じて、それにお縋りするという姿勢が、多くの仏教信徒の中に存在しています。
阿弥陀如来にすがれば極楽浄土に往生できる、薬師如来には病を治すご利益がある。創価学会や日蓮正宗とて例外ではなく、日蓮の文字曼荼羅にお縋りすれば全ての祈りが叶えられ、ご利益(功徳)を頂く事が出来る。
この様に考えられている人は、仏教を信じている人たちの中には、多くいるのではないでしょうか。
しかし仏教とは、少し学んでみると解ることなのですが、けして超自然的な力にお縋りする事を求めているものではありません。これは初期仏教を見ても解りますし、大乗仏教で説かれている様々な仏菩薩に於いても、衆生を救済するとありますが、それは「法」を説いて人々を導き救済する事を述べていて、けして「ご利益」を与えて衆生を救済する事を、本来は説いていないのです。ましてや法華経にある「久遠実成の仏」は、心の奥深くにある心の土壌の様な存在を「仏」と呼んでいるのです。
仏教では一貫して解かれているのは、人の心の仕組みや構造、そしてその力用や周囲の環境との関係性について述べられていて、そこから見ると何か超自然的な力にお縋りするのではなく、自分自身の心の理解を深めるための「思想・哲学」に分類されると思うのです。
人は何故苦しみ悩むのか、死とは何か、生とは何か、生きる事とはどういう事なのか。等など、様々な事に対して問い直し、自身の中にその答えを探して、本来どの様に生きるべきなのかを問い直す学問的な側面があると思うのです。そしてそこで学び得た事で、この人生を有意義に生きていく事に、その目的はあるのではないかと思います。
仏教の教えの中で、仏は法を説きます。そして人々はその仏の説いた言葉を理解するために修行するなかで、仏の説いた意義を理解していく。仏教の経典にはその様な事が説かれているのであって、その経典を呪文の様に捉え、読むことで経典の持つ力を頼むというものではない。私はその様に思うのです。
ただこれについて、人の心には悩ましい側面があります。それは人の心は「思考を具現化する能力」を持ち合わせているという事です。これについては華厳経にある「心如工画師(心は工なる画師の如し)」という言葉や、法華経にある十如是からも読み取ることが出来ます。
また天台大師は九識論で表現しましたが、人の心というのは多層的な構造でもあります。要は日常的に私達が意識の中で思考している事とは別に、本心で思考している事がある事を、本人すら認識出来ません。これはよくある「深層心理の問題」として、また「心理テスト」により、人は気付く事が出来ると思います。
これは皆さんも経験した事があるのではないでしょうか。
そして「思考を具現化する能力」の思考とは、表面的な意識ではなく、その深くにある本心が働いてしまうので、結果としては「思いもよらなかった出来事」が具現化してしまう事もあったり、場合によっては如何にも「棚ボタ」的に願いが叶い、「これはご利益だ」と誤解してしまう事もあるようなのです。
仏教で言われている「心の師とはなれども、心を師とはせざれ」という事も、こういう複雑で多重的なのに心に振り回されるのではなく、その心を理解して統率する事の大事さを語る言葉であり、日蓮も言った「利根と通力には拠るべからず」という言葉も、そんな心の振る舞いにより、捉え方を間違えてはいけないと言うことを指していると思うのです。
さて、仏教を「哲学、哲学」と理解して、自身の心の動きや姿を理解することは、とても重要とは思いますが、もしこの仏教を、「宗教」として捉え、なかんづく「偉大な存在(仏を誤解した認識)」や「力のある正しい法」ととらえ、それにお縋りするような事であれば、天台大師や日蓮も述べた様に、それは「雖讃法華経還死法華心(法華経を讃えるといえども、還って法華経の心を殺す)」となり、結果としてはより自身の心を理解できなくなるように、私は考えています。
仏教を理解するのであれば、この観点を間違えてはいけないのではありませんか?
仏教の求めているのは、けしてお縋り信仰ではないのです。