簡単に言えば、三日寒い日が続いたあとに、四日間温暖な日が来るという感じに、冬から春に季節が移り変わっていく事を、この言葉は言っているのでしょう。
先日は「春一番」が吹き荒れました。当日の私は子供を連れて、車で史跡巡りをしていましたが、車中、子供とは様々な事について語らうことが出来ました。まあ子供の中に、この時に話した事のうち、何の位の事が残るのか、そこは解りません。
でも季節が変わるように世代も変わっていくのですから、親としては少しでも自身で経験した事を、子供には残せたら良いなと思うのです。
さて今回は仏教に説かれている「仏」という事について、少し雑感的に書いてみたいと思います。
創価学会では「仏」というのは、具体的にどんな存在なのか、そこは明確な統一見解がありません。
「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
日蓮も御書の中でこの様に述べている事もあるので、創価学会を始めとして宗門の信徒たちも、敢えて仏という事については、真正面から語ることを避けてきました。
「こんちくしょう!という心が仏だ」
「所願満足が仏なんだ」
「絶対的幸福境涯こそが仏なんだ」
以前にも少し書きましたが、創価学会でも宗門でも、「仏とは何ですか?」と質問すると、恐らく人によって回答はバラバラになるのも、そういう事から致し方ない事だと思います。
私はここ最近、時間がある時に法華経を読みながら考えていますが、仏教には仏の姿としては三種類有るように思えるのです。これはあくまでも今の私の個人的な見解としてなのですが。
一つは始成正覚の仏。これは菩提樹の下で瞑想し、そこで悟りを得たという古代インドの釈迦です。
この釈迦は、四諦や十二因縁、八正道という教えにも現れていますが、やはりこの世界に産まれ出て、様々な執着から諸々の苦悩が生じるとして、要約すれば灰身滅智する事で人生の苦悩から離れられ、それを悟りとした仏だと思います。
この様に言うと「それでは阿羅漢果が悟りではないか」と言われたりもしますが、実際に釈迦か五人の沙門に初転法輪をして、かれらが悟りを得たことに「これで阿羅漢は六人となった」と語り、自身も阿羅漢で有ることを、暗に明かしています。
恐らく釈迦滅後、後世の弟子達の中には、釈迦を尊重崇拝するあまり、この釈迦が阿羅漢であったことを否定し、自分たちとは別格の存在であったという認識が膨らんだ事から、仏とか悟りという話も形作られていったのかもしれません。
よく言われる「仏教では具体的に悟りの内容が語られていない」という事も、そもそもこういう後世の弟子達の創作話も相まって、言われるようになったのかもしれません。
二つ目の仏とは、大乗仏教に言われる仏です。大乗仏教になると、世界観も三千大千世界という宇宙規模に膨れ上がります。そしてこの三千大千世界には、様々な仏国土があると言われ、それぞれに様々な仏が存在すると考えられられる様になりました。
またこの三千大千世界とは過去から未来という、三世の世界観もあるので、仏とは過去から未来にかけて、様々な仏国土に様々な仏が存在すると考えられていたのです。
阿弥陀如来や薬師如来、大日如来(盧遮那仏)や燃燈仏など、名前を上げたら切りない程の仏が大乗仏教には説かれています。
この仏とは、長きの間、修行を行いたどり着ける境地として捉えられており、其のために修行者は仏のもとで菩薩としての修行に生々世々に励むと言われています。この修行の具体的な姿は「本生譚(ジャータカ伝説)」に述べられている釈迦の過去世の姿として描かれていますが、とてもマトモな人間では取り組むことが難しい修行の果に、私達は仏になること(成仏)ができると言われ、この仏は理想的な人格者であり、また指導者であり、人々に慈悲を垂れる偉大な存在として描かれているのです。
3つ目の仏とは、法華経如来寿量品で明かされる「久遠実成の仏」です。この仏とは宇宙の成立時に悟りを開いていた仏とあり、大乗仏教で説かれている多くの仏の「本地(本来の姿)」として述べられるだけでなく、その仏の元で修行している菩薩なども全ては「久遠実成の仏」の現れであると説かれています。
ここに説かれる仏というのは独自なもので、始成正覚の仏や大乗仏教に説かれる仏も、全てはこの久遠実成の仏が娑婆世界に現れたのものとなり、そればかりかそれら仏に帰依する人も、帰依しない人も、全てを包含する存在として説かれています。
始成正覚も大乗仏教の仏も、全ては修行の果に求めるべき姿として説かれていましたが、久遠実成の仏となると、実はそういう人達は元来から仏の心の土壌の上に有ることとなり、つまり「目標としての仏」ではなく「存在そのものが仏」という大胆な展開になっているのです。
だから修行という「因」も、そこから到達できる成仏という「果」も、同時に存在するという「因果倶時」が語られて、修行についても、仏という理想の姿を求めるのではなく、自身が仏であるという事を、心の底から理解して自覚できるか、という事が求められるのかもしれません。法華経の譬喩品第三以降にある、様々な例え話も要約すると、そんな内容となってることから、私は其の様に理解しました。
ではこの3つの仏、一体どの仏が正解であり、仏教では何れのモノを求めるべきなのか、という事になりますが、日蓮の思想からみたら3つ目の久遠実成の仏が、求めるべき仏という事になるのかもしれませんね。しかしこれはこれで「ハイそうなんですね」というものでも無いと思うのです。この前提には始成正覚の仏としての教えも必要となりますし、当然、大乗仏教に説かれる様々な法理も大事になります。それらを無視して「私達の心は元来から仏なんだ」と言った処で、その心の姿や働きは、やはり仏教という哲学体系の中に示されているわけで、当然、その事を知らなければ、単なる怪しげな与太話の方向へと行ってしまうでしょう。
因みに創価学会や宗門では、「久遠実成」とは別に「久遠元初」なんて事を立てている時点で、既にこの仏という概念が、従来の仏教とは異なる世界へとぶっ飛んでしまってますので、結果、今の創価学会の様な、怪しげな教義になってしまっているのです。
今回の話はここまでとします。