この年齢になると、自分の生きてきた過去に想いを馳せながら振り返る事が、若い時と比較して多くなってきました。そんな時、ふと感じる想いが「恥の多い人生を送ってきました」という、太宰治氏の人間失格の言葉です。
まあこの私が感じている「恥」というのは、当然、太宰治氏の云う恥とは異なりますが、私にとってはやはり「恥ずかしい」と思う事が、今迄の人生では多くあるのです。
そしてふと思うのが、この「恥」を感じている「私」とはどんな存在であるのか、と言う事です。
これは何も「恥」だけではなく、「悩み」や「苦しみ」を感じている自分は、一体如何程の存在なのでしょう。私もそうですが、人と云うのはこういう感情を感じて、それに飲み込まれた時、全宇宙がそんな負の感情で充たされているように感じます。
しかしこんな時に、ふと夜空を見上げると自分の小ささを実感します。
夜空に浮かぶ月までの距離は38万キロあり、光の速度で往復2秒ほど掛かる距離があります。太陽から地球までは光の速度で片道8分かかり、この距離を1au(天文単位)と定義しています。夜空に光る木星までは5天文単位、土星までは10天文単位という距離です。
この太陽系の大きさ(太陽圏)は94天文単位。冬の大三角形を形づくるシリウスまでは7光年でベテルギウスまでは800光年と言われています。
因みに天の川銀河の直径は、10万光年で宇宙のサイズは138億光年で、ここまで考えると訳が解らなくなります。
要はこんな負の感情を感じた自分も、夜空を見上げて振り返ると、この宇宙の中ではとてもちっぽけな存在である事を感じてしまうのです。でもこんなちっぽけな自分ですが、感じる事は自分の感情が全宇宙に広がったように感じてしまいます。
私達は宇宙がどんなに大きかろうと、広大であろうと、それを認識するのは、2つの目であり、2つの耳でしかありません。そしてその目とか耳には自分の心が深く関与してきますので、結果としては見える世界全てが心の心象風景として映り込む事から、この様な見え方になってしまうんですね。多分。
つまり目や耳といった感覚器官は「心の窓」として機能している訳であり、人はこの心の窓にどうやっても縛られてしまう生き物なんです。そこから考えると、やはり「心」という事を解決していかない限り、人は様々な感情に縛られてしまうという生き物なのでしょう。
あとこの様々な事を心の窓から感受する「自分」という存在は、一体何なのでしょうか。
16世紀にヨーロッパのフランスに生まれた哲学者のデカルトは、自著の「方法序説」の中で、目に見えるもの全てを否定し続けた先に「我思う故に我あり」という、どの様な疑いをぶつけても否定出来ない、考え続ける自分自身(自我)を見つけたと言います。これが今の西洋社会にある個人という思想の基本となっているんだと、学生時代に聞いたことがあります。
初期仏教の思想には、この自我というのも「縁起」で存在しているに過ぎないという思想があります。これがよく言う「無我」という考え方です。要は固定的な存在としての「我」は無く、在るのは縁の上に成り立っている「我」であり、この成り立たせている関係性が無くなった時点で、「我」という存在も無くなってしまうと言います。
これにも様々な考え方がある様ですが、「ミリンダ王の問い」という仏教説話で、ミリンダ王の対話相手となったナーガセーナ長老という仏教僧は、「我」という事について、以下の様に語っています。
「例えば車があったとします。ではその車はどこをとって車と呼びますか?車輪でしょうか、車軸でしょうか、それとも荷物を乗せる荷台を指して車と呼ぶのでしょうか。車輪や車軸、そして荷台が組み合わさった状態のものを、私達は車と呼ぶのです。(要旨)」
この例を通しながら、人と言うのも自我はどこかに固定的にあるのか(例えば脳にあるのか、心臓にあるのか)と言えば、そうではなく、体の様々な臓器が組み合わさった上に、縁起として「我」は成り立っているに過ぎないと言うのです。この事から過去・現在・未来に亘り、恒に存在する「我」はなく、そんなもの執着する事から苦悩が起きるのであり、そこに執着すべきでは無い。まあ簡単に言えばそういう事を言っています。
しかし同じ仏教でも、大乗仏教では少し異なっており、歴刧修行と言いますが、生死流転の中で積んでしまった宿業を、罪業を消滅していき成仏を目指すという業因業果の思想があります。これは初期仏教の思想というよりも、どちらかと言うとバラモン教で説かれている輪廻転生の思想に親しいと言えるのかもしれません。
バラモン教では過去世において、悪い行いをした為に、その報いで貧しい階層や卑しい階層の人々は生まれてきたと言います。そしてそれは生死流転を繰り返す中で罪業をバラモン教によって消さなければならないと教えています。いまだにインドで問題となっているカースト制度も、このバラモン教の思想がベースとなっているそうです。
では大乗仏教に於いても、この様な輪廻転生観に基づく考え方なのかといえば、法華経によってそれは全て覆されたのです。法華経では、この輪廻転生観を壊すことをせず、それらにも意味を与えた上で、別の観点を説いています。
まず歴刧修行という事について。これは人々の機根(心の状態)に併せて方便として仏が説いた教えであるとし、それによって人々を三乗(声聞・縁覚・菩薩)という悟りを得させるための教えであったとしました。
そしてその先に久遠実成の姿を説き示して、実は自分の中にある仏の存在、心の本質を示しました。これによって、実は輪廻転生についても過去からの宿業という事ではなく、仏の働きの中にある事となり、業因業果の縛りから解き放つ事を明かしました。
これはジャータカ伝説で説かれていた過去からの釈迦の修行というのも、実は開悟した後の行動(五百塵点劫の昔に開悟していたという事から読み取れます)であり、それらはこの娑婆世界における久遠の仏が菩薩道の修行をする姿であった事になった事から解ります。
つまり全ての苦悩とは、菩薩が衆生を導く為の「願兼於業」であったという事になります。
またもう一つ、「我」という事も、他から切り離された存在ではなく、全ては久遠実成の釈尊からの派生であり、同質の存在であると明かしたのです。これは五百塵点劫の昔に開悟した釈尊が、それそれの仏国土で仏として出現し、人々に法を説いてきた事を明かし、それは釈迦の前世の時の師匠であった燃燈仏もその姿であると明かし事から読み取れます。
つまり私達はそれぞれに「我」を持ちながら、実は共に同じ心の本質から派生した存在であるという言うわけです。そしてそれぞれに「我」として個別に独立・分断した存在だと言うのは、恐らく「心の窓」としての感覚器官が異なること、またそれまでの経験が蓄積された記憶による為の錯覚の様な事かもしれないのです。
かなり小難しい話をしてしまいましたが、この日常で私達が感じている個別の「我」とは、もしかしたらこの様な錯覚からであり、自身の心を内観して深く知っていくと、共に共通の心があり、それを天台大師智顗破「九識心王真如の都」と呼んでいた。つまり自分の意識の本質はそういうところに有る。そういう事かもしれないのです。そしてそれを確信する事が、本当の意味での成仏(仏を開く)という事なのかもしれませんね。