本日、関東・甲信越方面は梅雨明けしたと「みられる」という気象庁の発表がありました。私の学生時代は梅雨明けが待ち遠しかったものですが、近年では夏が「酷暑」の季節となり、待ち遠しいというよりも、我慢の季節の到来を告げている感じがします。
しかまだ六月後半だといのに、早すぎますよね。関東方面の水瓶状況は大丈夫なのでしょうか。
私が子供の時なんて夏の気温は28度位でした。30度を越えると猛暑日と呼んでいましたが、今日の昼間の外気温は35度を気温計は指しています。エアコン無しでは自殺行為に等しいですよね。熱中症による搬送多いみたいですが、皆さん、くれぐれも体調管理には気を付けてください。
さて、今日はこんな酷暑に茹だる陽気の中、誠に答えなんて無い事について書いてみます。
唐突ですが、皆さんはこの宇宙の大きさについて考えてみた事がありますか?
一説には約138億光年の大きさと言われていますが、これは1秒間に地球を七周半回るスピードの光でも138億年掛かる大きさだと言われています。でもこの大きさが確定しているわけではなく、いまの地球上の「公式的」な科学の想定範囲と言うことであり、もしかしたらとんでもなくデカイのかもしれません。
では次に、私たちの周囲にある物質の構成している最小単位は何なのでしょうか。学校では「原子」と教わりましたが、その原子は陽子と電子、中性子で構成されていると言われています。しかしこの原子ですが、陽子と電子の間は隙間が大きくスカスカで、実際に電子がどこを回っているかは掌握できておらず、確率論的な観測と言われています。また電子や陽子がトップクウォーク(最小単位)では無いことが解っていて、実は物質の実態とは未だ正確には把握できていません。
またこの極微の世界では「観測する行為」が実験結果に影響を与えることも言われており、そこから「月は私たちが観測するから存在する」という様な、まるでお化けの様な理論も出てきているのです。
私達が生きている世界というのは、実はこういった世界なのです。つまり「何一つ完全に解明されたものが存在しない世界」と言えるでしょう。
でもこの瞬間、私達はこの想像も出来ない宇宙の片隅に確実に生きているわけです。また私たちの周囲を囲んでいる様々なモノ、これには有機体(生物)や無機物(物体)がありますが、それらは目には見えていて、触り、様々な感覚をもって捉える事が出来ますが、実はそれぞれ突き詰めていくと、その実体が存在するという確証は無いのです。ただそこに五感を以って捉える事が出来るので、私たちは心の作用によって、そういった事が「実在する」という事を信じていると言っても良いでしょう。
いや、正確に言うと何も解明されてないという事ではなく、人類はこの世界の事を未だ何も突き詰めて認識、理解出来ている事は無いと言えるのかもしれません。ただあるとしたら「現代科学」という、人類の歴史の中で、高々数百年の実績によって構築された「科学的」という信念体系に基づいた「思い込み」を私達は教え込まれ、それを真面目に信じて、その信念体系の中で生きているという事なのかもしれないのです。
よく考えて見て下さい。この私達の生きている世界の成り立ちや、その広さ、奥行きの深さを私達は未だ解明できていないのです。また私達は人類という自らの種族の成り立ちや、その起源に至るまで、何一つ解明できている事は無いのです。
この世界は「摩訶不思議」に溢れています。
人は何故この世界に生まれ、死んだ後に私達の心は何処へ行き、どんな体験をするのか。
過去に人類はどの様に発生したのか。何故それがこの地球上なのか。
ミッシングリンクは何故あるのか。
過去に人類はどの様に発生したのか。何故それがこの地球上なのか。
ミッシングリンクは何故あるのか。
そもそも人種は何故多様な言語を持ち、それぞれに異なる文化を持っているのか。
世界各地の民族に伝承する神話で、共通するディテールが存在するのは何故なのか。
地球上の各地に点在するオーパーツは一体何なのか。
聖書や古代インドから伝承されるヴェーダに描かれている物語は何を示しているのか。
聖書や古代インドから伝承されるヴェーダに描かれている物語は何を示しているのか。
実に私達人類の根源的な事に関する謎というのは、この世界には数多あるのですが、「現代科学」でそこと真正面から向き合っているものはどれだけあるのでしょうか。多くは大雑把に学者と言われる権威者が、自身の思考が及ばない出来事を目にすると、それに対して「非科学的だ」という烙印を押し、その権威者の言葉を多くの人達が鵜呑みにし、こういった様々な謎に対して何も考える事はありません。もし考える人が出てくると「異端者」として、その言動は無視されてしまうのです。
私は何も、だからと言って今の世の中にある「カルト的な思想」や「そこの浅いスピリチュアルな思想」を肯定しろという事は言いませんが、そろそれ人々はこの世界の姿に対して、思考を傾ける必要のある時代に来ているのでは無いかと思うのです。
一昨年前から世界的に起きている「パンデミック」も然り、その後のワクチン接種の世界的な動きもしかり、昨今の国際情勢の裏側に見え隠れする出来事についても然り。
実は自身の周囲にある「ささやかな矛盾」「ささやかな不可思議さ」を人々が感じる事が出来て、そこに対して、ほんの少しの思考を傾ける事が出来れば、またそれに対して「フラットな情報交換」と「(マウントを取る事ではない)多少の対話」が出来る様になれば、人類社会の変化というのが訪れるのではないか。そんな事を最近考えてしまうのです。
でもそれが一番、いまの人類にとっては「難作業」なのも理解しているんですけどね。
「思考を傾ける」にも労力を必要としますし、そこでの情報交換や多少の対話と言っても、労力無しには出来ません。人は日常を生きる中で、そういった労力を割いていく事が、とても不得手は生き物なのです。
日常的な思考には常識という事が付きまといます。そしてそこにはまるで物理法則の「慣性」の様に、思考にも慣性の力が働いています。その思考的な慣性を受け止めるという事は、けして簡単ではありません。
ただそろそろこう言った事も、まずは理解すべき時に来ている様な気が私はするのです。
皆さんは如何おもいますか?
少しややこしい話をしてしまいましたかね。。。。大変失礼いたしました。
少しややこしい話をしてしまいましたかね。。。。大変失礼いたしました。