夏季休暇も終わり本日から仕事となっています。私の場合、テレワークという勤務形態なので自宅に籠っているという事では、休みと変わりありません。ただパソコンの前から動けないという事では違いがありますけどね。
さて「心のかたち」について、かなり書き続けてきましたが、まだまだ書き続けていきます。今回は日蓮の教学の「九識論」の観点から、少しこの事について振り返りをしてみたいと思います。
以前にも九識論について、このブログでは書いてきました。この九識論ですが、日蓮独自の論と勘違いしている創価学会の会員も多いのですが、これは天台大師智顗の提唱した理論です。日蓮の教学というのは、多くのものが天台教学を基礎にしていますが、私が日蓮の教義を「少しだけ」掘り下げて感じたのは、やはり天台教学の観点を理解しないと、日蓮の残した教えというのは正確に理解できないと思います。
ただ日蓮はその上で独自の解釈を加えているので、そのために日興師は遺誡置文で以下の言葉を残していたのかもしれません。
一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。
一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。
一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。
要は天台教学を中心に学ぶと、日蓮の教えはこんがらがってしまうという事なのでしょう。
しかし私は最近、日蓮にこだわりを持たなくなってきましたので、この日興師の遺誡も参考程度として置きます。何故ならば私の立ち位置、心の中ではすでに日興門流でも無くなっていますし、今後も広く自由に思考の枠を広げていきたいと思っています。
ちょっと話がぶれました。
よく創価学会では「九識論」という事について、生命論の話とか言います。これは小説・人間革命の中で戸田城聖の悟達として、無量義経の三十四の否定から思索し結論とした、「仏とは生命なんだ」という言葉から来ています。つまり法華経で説かれる「仏」とは生命その事であるというのです。これは「慧眼だ」なんて思うかもしれませんが、それでは「生命」とは何か。
この生命という言葉ですが、実は大雑把な表現であり、仏教の視点が果たして生命という大雑把な事を見ていたのか、私は最近になって疑問を持っています。ましてや仏教における「仏」とは、そういったイメージだけを想定していると思えません。
私は仏教そのものは「人の心」という事に焦点を当てた哲学ではないかと思うのです。伝説によれば釈迦の原点とは「四門出遊」という故事ですが、そこでは人の「生老病死」の苦悩と、それに対して解決を模索する修行者の姿が描かれています。釈迦は何も奇跡を起こして人々を救うなんていう事は考えていません。ただ人が人生の出来事(四苦)を正確に理解して、それを受け入れ超えていく事を目指していたのではないでしょうか。そうであれば、その為の主眼となるのは「人のこころ」であるべきだと思うのです。
ただ近年になり、科学の量子力学の分野で、人が観察する行為それ自体が物質などに対して影響を与えるのでは無いかという事がわかってきました。だから心の問題というのも、単なる個人の内面にとどまる事なく、大きく広がりを持ってきた感じもしますが、仏教とはその中心にあるのは、どこまで行っても「心」だと私は思うのです。
そこに「生命」とか「宇宙」なんて言葉を安易に混ぜ込んでしまう事で、実は仏教そのものに対する考え方を歪めてはしないか。創価学会の教学の最近のオカシサの原因も、奈辺にあるように思えてならないのです。
またまた話がぶれましたので、九識論に戻します。
九識論では、人間の感覚(眼・耳・鼻・舌・肌)にそれぞれ「識」があると言います。ここでいう「識」とは単なる感覚器官という事ではなく、それぞれの感覚器官に識別する働きがあるという事になっています。これはどういう事かといえば、人は見たい事を見て、聞きたい事を聞いて。という様に、時々に受信した情報を識別して認識しているという事を指しています。
この五識に対して、感受している情報のうち取者択一をするために働いているのが意識(六識)です。意識とは受け入れた情報を統合して認識する働きをすると共に、受け入れるべき情報についても感覚器官の識(五識)に対して指示していると思われます。ここからも判る事ですが、やはり人の心というのは、基本的に見たいものを見聞きしたりする働きがあるという事なのでしょう。またこういった意識(六識)と五識(感覚器官の識)の働きから執着や偏見なども起こりえるのかもしれません。
次にこの意識(六識)ですが、人の日常の心の働きの中核をなす識です。
恐らく脳幹などで確認できる論理的な働きや情緒的などで動きなども、この意識によるものと思われます。私たちが「自分の思い」「自分の考え」と思惟する働きもこの六識による働きの結果と言われています。
ただ最近になり、私たちの心の働きの中に「深層心理」という事で無意識による様々な働きが影響している事が判明していますが、その深層心理と言われる部分は、九識論の中の末那識(七識)という識によっています。七識には「エゴ(自我)」の中心的な働きがあると思いますが、自分が自分として認識できているのも、この七識の働きだとうのです。またこの七識は六識との間、また場合によっては六識をとばして五識との間で相互に働きあっている事が見て取れます。
無意識に目を向ける、耳を傾けているという事、日常生活の中でありませんか?
このように私達が「心」として理解しているのは、六識と七識が中心となっています。
ただし「心」には認識・判断する上で大事な事があります。それが「記憶」です。人は過去の記憶に基づき判断したりします。これは意識的に記憶から判断する場合もありますが、無意識的に判断する場合もあります。九識論ではこの記憶する識として「阿頼耶識(八識)」、別名を蔵識という識を立てています。
この阿頼耶識ですが、これは過去から現在に至るまでの「業(行い)」が蓄積されている識であり、そこから「蔵識」とも呼ばれていますが、今の私達に理解しやすい内容として言うならば「記憶」という事かもしれません。
最近になり、一部で「人の人格の中核をなすのは記憶である」という説があります。例えば亡くなった人の記憶を誡部の記録装置に残し、そこに人工知能をつなぐことで、亡くなった人格を再生する事ができるという理論です。過去の法相宗などが「心王(識の中核)」として阿頼耶識を立てていたのも、この最近の説に近いのかもしれません。
確かに記憶をベースに人格などを解析し、疑似的にトレースする事ができれば、そこに記憶を付加する事で、故人を疑似的によみがえらせる事は可能かもしれません。しかしここは仮説なのですが、前の記事で紹介した宇宙人ユミットの提唱している「2つの宇宙論」により、人の心というのがあるとした場合、これは完全な故人の復活にはならないと思います。
これでは、どこまで行っても疑似的な装置という事に過ぎないでしょう。
過去世の記憶、また中間世の記憶が残っているのも、この阿頼耶識の働きの一分かもしれませんが、記憶という事であれば、三世の個人の記憶以外にも、生物種としての記憶、また民族としての記憶というのも、個人の記憶に残る事が最近になり解っています。しかしそうなると、その記憶と蔵識との関係はどうなるのか。例えば欧米人がネズミを忌み嫌うのは、過去にあったペストの大流行の影響であると言われていますが、これなどは個人の三世の記憶という事ではありません。過去の民族や人種の共通の記憶です。そうなると阿頼耶識の段階では、すでに個人という枠にははまらない「心の働き(識)」であるという事もあるかもしれないのです。
ただこの阿頼耶識が示す「心のかたち」では、人の心について自分たちが意識する、しない、というレベルではなく、常に過去の行いの影響を受け、それが一人の人間の今の行動に影響するというのです。その起こした行動が心の奥底に改めて「業」として改めて蓄積されるという事を指し示しています。
そして九識論の最奥には「九識(阿摩羅識)」というのがあると言います。これは法華経で言う「久遠実成の釈尊」という事に該当する識であり、ニール・ドナルド・ウォルッシュ氏の神との対話の中でいう「神」が該当するのでしょう。またユミットの説によれば「2つの宇宙」で、この現実宇宙のとは別にある宇宙(あの世)にある意識の基盤という事になるのでしょう。
この九識は個人にとどまらず、民族や生物種、そして宇宙にある様々な意識の根源となるものであって、天台大師や日蓮はこの識を「九識心王真如の都」と呼んでいます。
私達の「心のかたち」というのは、仏教の九識論から考えてみると、このような多重的な構造をもっているという事になるのです。
(続く)