これから少し、私の創価学会から離れて、今に至る思想遍歴について、だらだらと書いてみたいと思いました。お時間のある方はお付き合い下さい。
私は二十歳の頃から創価学会の中で活動家をしてきました。まあ「学会二世」なので親(母親)が既に入会していたのですが、母親も幹部ではなく、それほど活動家でもなく、ましてや従順な人では無かったので、その子供という事から、周囲からは期待された未来部では無かった様です。
だから未来部なんてのは中等部の後半から、関係が始まりまして、それまでは創価学会という宗教団体とは無縁の生活をしていました。
高等部では部長というのはやりましたが、まあ当時の担当男子部の横柄さや、既に高校生の時代で「結集結果」の「総括」をされる立場に嫌気がさして、活動を止めた時期もありました。でも結果、組織活動に戻ったりしてました。
しかし社会人になり、当時、周囲で幾人かの知人の「死」という事を目の当たりにして、また様々人生を考えるうち、創価学会の活動をし始め、気が付けば四十代で分県青年部長、創価班では総県幹部までやってしまったんですから、人生とは判らないモノですね。
二十歳前から四十代初めころまで、創価学会の言う事を信じ、池田大作という人間の言葉を四半世紀(約25年近く)信じて来たんですから、そりゃ気が付けば骨の隋まで「創価学会」が染み付いてしまっていました。
周囲の人間関係の八割は創価学会の中の人間でしたから、創価学会を抜くと私の周囲の人間関係も消え去る様な状態です。
幸いにして、仕事関係については創価学会とは一切無縁で、私は二十歳からIT業界で仕事をしてきて居ましたが、そこはそこ、自分自身の「腕一つ」ではありませんが、持ち前の技術力(と言っても大した事ありません)とノウハウ、また業界内の人脈で何とか生き拔いて来れました。
だから創価学会との関係はどうあれ、仕事には一切影響ないという状態だったのが幸いしていました。
さて、そんな私が活動を止める切っ掛けになったのは、壮年部に行ってからの事でした。
私は男子部時代に幹部をやっていて、様々な事を見聞きしていて組織に少し疲れていた事もあって、壮年部ではブロック長からやる事を希望。要は「一から信心を出直ししたい」という事だったんです。
でも男子部でそれなりに幹部をやると、結果として地元ではなく、区内の別組織に派遣され、そこでブロック長(いずれは直ぐに地区部長)という事になっていました。
壮年部となり、一から地道に、、と思ったんですが、まあそこで経験した事は酷かった。。。
新聞の多部数購読は半ば強制されるは、地区を見回すと御主人が未入信の地区婦人部長にも数部の新聞購読が為されていて、高齢者の白ゆり長夫妻なんかも、年金生活にも関わらず同じく多部数購読。「信心だからしかた無いけど」という事で、僅かな年金の中から新聞代を支払っていました。
また選挙になると、何故か自民党の支援を命じられ、地区内のご高齢のお祖母ちゃんなんかが、商店街などで自民党候補の「F取り」で辻斬りを行い、それを無責任に激励して褒め称える幹部達。(この自民党候補なんて公明党の支援なんて一切していなかったんですけどね。なぜか「大恩ある自民党の先生」とか呼ばれていました)
あとは人に対する陰口なんて、日常茶飯事。会合ではニコニコしながら、裏に回ると辛辣に人の陰口を言い合う壮年部や婦人部の幹部連中。
こんな事を全て「広宣流布の現実だから、受け止めろ」と言われても、私は創価学会の組織の中では「大人の信心」を貫くだけの度量はありませんでした。
だから創価学会の活動を止める事にしました。まあ先輩から、地区部長の打診を受けた時に「じゃあいらね!」と言われたからという事もあったんですけどね。
という事で創価学会の組織活動から離れる決意はしたんですが、その当時の私は身も心もまだ「イケディアン」であり、バリバリとまでは行きませんが、創価学会の信心が身についた状態てす。
だから組織から離れようと思った時、心の中のザワメキ具合は、尋常ではありませんでした。
(続く)