自燈明・法燈明の考察

法華経が勝れている事

 日蓮の遺文に唱法華題目抄という御書があります。これは大石寺版でも創価学会版でも一番最初に収録されているものです。私はこの歳になり、自分が半生を通して信じてきた日蓮仏法(まあそういう仏法は無いのかもしれませんが)とは何だったのかを思索しています。

 まあ半ば自分の思想遍歴を見直す様な感じでもありますが。

 そこで日蓮は何を主張していたのか、彼人の人生を調べ直したりもしてますが、建長五年四月二十八日の立教開示の時に(ここでは開宗とは言いません。何故なら日蓮自身も、それは否定していましたので)何を主張していたのは、恐らくこの唱法華題目抄にある事だったと思います。

 よく日蓮は「排他的な教えだ」と言われたりしていますが、日蓮は排他的な事を主張したのではなく、原理原則と本来の意義に対して強く主張していただけの様に思います。

 排他的と捉えるのは、恐らく戦後に急速拡大した創価学会の影響があったからかもしれません。何故なら「謗法払い」と言って、他宗教や他宗派を「邪宗教」と呼び、徹底して攻撃していましたから。

 まあこの辺りは追々書いていく事として、今回は日蓮が主張していた「法華経の信心」の法華経について少し書いてみます。

 先に紹介した唱法華題目抄では、法華経を信じる事の重要性について述べています。そしてその法華経を、末法(これは大乗仏教でいう時間枠)の人々には、あまりに尊く難解なので合わないとした、法然師の開いた念仏宗について、徹底して責めています。何故責めたのか。それは法華経を捨てる事を主張していたからなのです。

 では日蓮は法華経を最第一の経典だと、何故主張していたのか、それについては開目抄という、日蓮の御書には以下の様に述べています。

「但し此の経に二箇の大事あり」
(開目抄上)

 要は法華経には、仏教の中で二つの大事な事が書かれているという事なのです。ではその二つというのは何かと言えば、一つ目は「一念三千」であり、二つ目は「久遠実成」という事なのです。

 仏教(仏法)では「宇宙の法則」が説かれているとか、「生命の法則」が説かれているなんて、こう解釈しているのは創価学会ですが、私は仏教とは人の心を題材とした哲学であり、教えだと理解しています。何も宇宙だ生命だという事ではありません。人の心に焦点をあて、その形について、多くの人達(仏教では人師や論師と呼んでますが)が思考し議論を重ねて出来た宗教ではないでしょうか。

 だからこの一念三千や久遠実成という論理も、人の心を離れた話では無いと思うのです。要は心の形や構造を理解する為の理論では無いかと言う事です。

 まず一念三千ですが、これは十界互倶という事、そして十如是、そして三世間という言葉を理解しなくては理解できません。でもそれを知り、一念三千を知ると自分の心の構造というのが、理解出来てきます。この一念三千が理論的に完成出来たのは、法華経の方便品第二と如来寿量品第十六で述べられた内容に依ると言います。

 また久遠実成とは、釈迦は実に遥か彼方の昔(五百塵点劫の昔)に成仏していたという事で、こちらは如来寿量品第十六で述べられています。実はこの久遠実成という事によって、仏教が求めている成仏という考え方も、根本的に大きく変化してきます。

 そしてこの法華経を中心として、その証明や解説として一切の経典を解釈するのか、それとも一切の経典で、それぞれの教えを中心に解釈するのかにより、仏教の教え(これは大乗教を中心とした教えです)の内容が、がらりと変わってきます。

 だから日蓮は「法華経の信心」というのを主張したのではないでしょうか。またそういう立ち位置だからこそ、自分はいかなる宗派の宗祖や開祖でもないと主張していたと思います。

 以上は鎌倉時代の日蓮の主張。

 それから七百年以上経過した現代は、日蓮の生きた鎌倉時代とは、社会情勢や人々の考え方、情報量が全く違います。だからこれを現代に読み解き、それぞれの人たちに活かすためには「換骨奪胎」が必要になってきます。

 しかし換骨奪胎するにも、その本来の意義を理解しない事には不可能な事なのです。だから日蓮を信じるという事は、何故法華経が最勝の教えであるのかを、しっかりと理解しておく必要があるのです。

 という事で、これから私が理解できた範疇になりますが、この事について少し語っていきたいと思っています。

 引き続き宜しくお願いします。



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