自燈明・法燈明の考察

自行化他についての考察

 緊急事態宣言が延長されるという事が確実になりました。このパンデミックの出口について、日本政府はどの様に考えているんでしょうか。
 私の両親だけではなく、祖父や祖母の時代にも、今回の様なパンデミックの経験はかったでしょう。私はそんな時代に生まれ合わせてしまったという、この時の巡りについて様々な事を感じます。

 人生、生きていく上で様々な悩みというのは尽きないものです。
 私は創価二世で、初めて創価学会に縁したのは小学生の頃でした。当時は母親から勤行の重要性について様々教えられました。しかし実際に人生の上で、自発的に「祈り」をしたのは二十歳になってからです。


 二十歳当時は仕事の事、そして自分自身の人生の将来の事に様々な悩みもあり、その悩みを解決したいという事もあって、創価学会で活動を始めました。(まあ、当時に悩んでいたのは、それだけではないですが・・・)先輩からは「信力・行力で仏力・法力」という言葉を教えられ、折伏と言われる活動(化他)と唱題(自行)で、どんな問題も解決できると言われ、その通りに創価学会の活動を実践しました。

 結論からすれば、折伏と唱題に取り組んだ事で、悩みごとの幾つかは解決し、問題を乗り越える事が出来ました。詳細は語りませんが、それは私にとって、とても劇的な体験だったのです。

 この時、唱題については、土日には四時間から六時間、ひたすら御題目を唱えた事もありました。そしてこの体験から私は創価学会の宗教の力というのを実感し、その後十数年にわたり創価学会の活動に没頭する事になりました。

 「信心の確信を掴む」
 創価学会がこの様にいうのは、こういった信仰体験を掴ませる事でした。それによりこの体験こそが、創価学会を信じる論拠になっていくのです。そして創価学会を信じた人間は、創価学会という組織にとって極めて有効な「駒」となります。

 私が創価学会に「疑問」を持ったのは、四十代初め、壮年部という組織に移行した時でした。私は男子部という組織の時代、御書を読み、教義(当時は日寛師の教学でしたが)を学んできましたが、教えられた事やその教義の内容と、組織の実態の乖離のあまりの大きさに疑問を持ったのです。

 「斉藤君、これが広宣流布の現実なんだ!」

 男子部時代の先輩で、壮年部の時に私の上の幹部となった人は、当時の私にこの様に語りました。新聞の多部数購読、自民党に諂うような選挙支援、そして組織内部の下らない陰口、そして池田名誉会長への無条件の信仰。どれもこれもが男子部の頃に教わった内容とは相反するものでした。

 私が「アンチ創価」となったのには、こういった事があったからです。そしてそれ以降、それまで「当たり前」と教えられた事についても、私は自分自身の思考を向けていき、自分自身で検証を始めました。

◆祈る事について
 私が活動から遠ざかり、組織から距離を置くと様々な人が私の所を訪問してきました。そしてそこで必ず聞かれる事がありました。それは「勤行・唱題はやっているんだよね?」「御題目はどのくらい唱えている?」という事でした。

 組織から離れた当初、私は勤行・唱題は行っていました。しかし今では殆どやっていません。まあ御題目三唱程度は行っています。

 私は活動をやめてから考えました。人の一日の時間は二十四時間、これは誰人にとっても同じ条件です。この時間のうち、仏壇の前で「御題目」を唱え続けるという事に、一体、どれだけの意味があるのでしょうか。また朝晩の勤行をやる事にどれだけの意味があるのでしょうか。自分の人生の残り時間を考えると、こういう事も真剣に考え始めました。

「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし」
(唱法華題目抄)

 まずそもそも「勤行」という行動は出家者向けの修行であり、在家信徒の修行ではありません。この様式を在家信徒の日々の修行という形で取り入れたのは、恐らく牧口会長の時代だったのでしょう。

 出家者は一日24時間、修行の事のみ専念し、儀式や形式、そして仏教の教義を伝承するという役割を持っています。しかし在家信徒は、家庭や社会の生活を持っています。だから取り組む形も当然異なります。

 また行儀と言いますが、修行の姿について、この唱法華題目抄で日蓮は、「道場を出ては行住坐臥をえらぶべからず、常の所業は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし」とのべ、時と場所に関係なく、大事な事は御題目を唱える事だと述べています。そして「助縁」として他の題目や経典も読んでよいかもしれないと述べています。

 では勤行とは如何なるものか。

 物事を考える時、その原点について思いを凝らす事がとても大事な事です。私が思うのは「キサーゴータミー」の説話です。細かい事は以下のサイトを見てください。

 (浄土真宗本願寺派 総合研究所)

 この説話で、子供を亡くし、その子どもを生き返らせたいと嘆き悲しむ母親に対して、釈迦は「勤行をしなさい」「御題目を唱えなさい」なんて事を一言も言っていません。釈迦は彼女の悲しみの本質、そしてその本質への理解をする為の行動を巧みな教導で教え、その母親はその教えられた行動を取る中で思索続け、そして理解しました。

 この説話の事を考えた時、宗教により様々な苦悩を乗り越えるという事について、指導する側、教えを受ける側という両者に大事な事を教えていると思いました。

 指導を行う側には的確な言葉が必要だという事、また教導を受ける側も指導者に依存するのではなく、その指導を切っ掛けとして取り組みながらも「考える」という事の重要性があるという事です。

 創価学会では「とにかく祈れ!」と、長時間にわたる唱題と共に、日々の勤行を実践する事が重要だと教え、それよって「摩訶不思議な力」が働き解決できると教えます。しかし果たしてそれで悩みを乗り越える事は出来るのか。
 この年齢になり。私はそれは難しいと思うのです。悩みを乗り越える事で、一番大事な事は、悩んでいる本人が、その苦悩の本質を理解するのか、また本質を理解する事でどの様に生きているのか、そこが問われなければなりません。また指導する側にしても、それを的確に言葉を使い、相手に対して指し示しているのか。そこが大事な事だと思うのです。

 御題目を唱えるという事ですが、それは本人がこの御題目を唱え、そこに「力用」があると信じるのであれば、人生の時々で心の中で唱えるだけでも良いと思います。しかし在家者が行うべき修行で「勤行」は絶対に必要な事では無いでしょう。

 私は長時間にわたる「御題目」という事も考え直さなければならないと思います。
 同じ単語を同じリズムで一心に唱える。これは「マントラ(呪文)」に近い事で、これは瞑想に通じる部分があると思います。ただしこの事について、日蓮は以下の様に述べています。

「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」
(唱法華題目抄)

 ここで「一念三千の観」と述べていますが、これは瞑想という事を指す言葉だと思います。その理由ですが、天台宗は一念三千の観行を「座禅」という事で行っていた事は有名な事で、その為に中国では天台宗は「禅宗」とも呼ばれていたという事を、このブログでは以前に紹介しました。

 もし唱題行という瞑想行を行うのであれば、日蓮は「修学して之を観ずべし」と言っている様に、その前の唱題の事について、しっかりと学ぶ事が大事になるのではないでしょうか。

 「祈って物事が叶う」これは瞑想の副産物です。この祈りが叶うことで特定の宗教に個人が依存するという事があってはならない。
 男子部の時にもありました。唱題を続けていき、御本尊が金色に輝くのを見たとか、様々な不可思議体験をした話。
 禅宗(現在のですが)では魔境という話がありますが、マントラの様に御題目を唱えるという事で、これに似た体験をする事もあるのでしょう。そしてそれにより宗教に依存心を持つ事は、あってはならないのではないでしょうか。

 人は宗教の為に生きるのではありません。それぞれの人生の為に生きる事が重要だと思うからです。

 だから日蓮も「其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」と言っているのではないでしょうか。

◆弘めること
 また釈迦や日蓮など、それぞれの宗派の始祖ともいえる人達は、組織化という事には、とても無頓着でした。日蓮自身も以下の様に語っています。

「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず」
(妙密上人御消息)

 日蓮は大師講という学びあう集まりを作っていましたが、日蓮の御書でその事に触れているのは四編のみです。これらの事を考えても、やはり日蓮の中には組織化を重要視したという事は考えられないのです。

 教えを体系化し、それを宗教という組織化を図るのは後世の弟子達。

 恐らくそういう事ではないでしょうか。
 創価学会では「折伏」と呼び、新規会員を獲得する事を「化他行」と教えています。しかし本当の「化他行」とは、自身の生き方を通じて他者に善き影響を与える事であり、その本道とは「対話」という事では無いかと思うのです。

◆まとめに
 自行化他という事について、少し考える事を書いてみました。
 何故、この様な事をここで書いたかといえば、私自身が最近自分の人生を振り返る中で考えた事を、少しまとめてみたかったからです。
 人生とは恐らく大枠の流れというのがあって、詳細のところについては、時々の自分が思索をして決断を下しながら生きて行く事なのではないか。そしてこの人生で大事な事は、その途上で様々な事の「経験」であり、その経験により自分自身の心が成長する事こそが大事なのではないかとも思うのです。

 少し考えてみる必要があるのではないでしょうか?


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思う事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事