自燈明・法燈明の考察

久遠実成についてもう少し

今日は週末ですが、今週は長かった感じがします。実際には火曜日からなので、いつもより一日短い一週間のはずが、感覚として一週間以上あった感じがしています。それだけシンドイ仕事が多かったからかもしれません。

 さて、以前に一念三千という事や久遠実成という事について書いてみましたが、もう少し書き下してみたいと思い、記事を書いてみますので、お暇のある方はお付き合い下さい。

◆人の心の姿を表す
 久遠実成と言うのは、人の心の姿を表現したものではないかと、私は考えています。人には必ず「自我」というものが存在します。そしてこの自我が故に他者と自分を分けて考え、行動するわけです。西欧の哲学者であるデカルトが「我思う、故に我あり」という言葉で語ったのも、こういう自我があったればこそでは無いかと思うのです。
 デカルトはフランスの数学者であり哲学者でした。かれは自著「方法序説」の中で全ての事に疑いを掛けたと云います。それは自分の中で感じる「痛い」とか「苦しい」という感覚をも疑いをもって考えたのですが、そこで全ての事を疑い続けても、尚残る自我というものを発見し「我思う、故に我あり」と言ったと言います。

 ここからは私の完全なる私見です。
 自我を感じて認識するというのは、それは他者との区別化にも通じます。欧米の個人を大事に考えるという文化の奥に、このデカルトの思想があると、以前にある本で読んだ事があります。

 しかしこの事が、いわゆる他者の痛みへの無関心や、引いては他の生き物や環境に至るまで、自分とは切り離して考えてしまうという思考を増長させたという事はないでしょうか。最近、話題となっているオーストラリアの大火災。あそこでは十億匹に及ぶ動物がなくなり、オーストラリアの環境には甚大な被害を及ぼしています。しかしこれは私自身が感じた事ですが、その様な情報や映像を見ても、何か他人の出来事の様に感じている自分自身がいるのです。

「この日本に住んでいる”私”には関係のない、遠い世界の出来事なんだ」

 これは皆さんの心の中にもありませんか?

 この様な自我という事を元に、他者との区別化を当たり前の様に感じて、それを元に思考して行動する。これが現代文明に様々な問題を引き起こしているという事はないでしょうか。

 仏教とは「縁起の思想」とも言われています。全ては自分とは他にある存在との縁起によって成り立ち、また自分自身も縁起によって存在する。この様な観点に立っての思想であるとも言えるでしょう。そしてその心の一段深く、よりリアルな姿を表現した一つの論理が「久遠実成」というものではないかと、最近、私は考えたりしているのです。

◆久遠実成を振り返る
 久遠実成とは五百塵点劫という、思惟も超えた時間ばかりに思いを馳せますが、要は元々から仏であるという事を述べるための「方便」として、この時間が述べられています。
 久遠実成は法華経の如来寿量品第十六で明かされたものですが、ここで久遠実成を明かしている釈迦とは、始成正覚(この世界で開悟)の釈迦として語っては居ません。ここで法を説くのは久遠実成の釈迦として説いています。そしてここでは以下の様に述べています。

「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。
 亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。
 諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。
 是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」

 久遠実成の釈迦は、常にこの娑婆世界(現実世界)に於いて法を説いてきたと言います。また余処の数限りない世界に於いても、娑婆世界同様に説法をしてきたと言うのです。そしてこれ迄の間(中間と述べてますが)、久遠実成の釈迦は燃燈仏として法を説いたり、様々な仏菩薩として法を説いて来たと言います。そして涅槃に入る姿をも見せてきた事を述べ、それらは全て「方便」として分別して来た事であると言うのです。

 では法華経を説く以前の釈迦はどうだったのか、この法華経で久遠実成を説く釈迦は、その以前の人とは別人となったのか。釈迦族の王族の王子として生まれ、この世界の苦悩をしり、悩み出家し、苦行林で死ぬほどの苦行をし、開悟したとして人々に法を説き、様々な苦難に遭ってきた釈迦は、この久遠実成の釈迦ではなかったのか。またジャータカ伝説にある様な、様々な仏菩薩の元で、修行してきた釈迦の過去世とは、久遠実成の釈迦とは別な存在だというのでしょうか。
 法華経の中には、そんな釈迦が変わったという記述はなく、法を説く釈迦は始成正覚の釈迦とは同一人物であるはずです。ただ覚悟(と呼んで良いかどうかはありますが)の上で久遠実成の釈迦として、この法を説いたのでしょう。

 この観点から考えると、この様な事が言えるのでは無いでしょうか。それはこの時代に生まれてきた釈迦の奥底には久遠実成の釈迦は存在しているし、その釈迦が過去世に於いて法を学び修行した仏菩薩の心の奥底にも久遠実成の釈迦は存在していた。

 つまり久遠実成の釈迦とは、全ての存在の心の奥底に存在するものであり、それは共通の「大我」の様なものである。そして私達一人ひとりの心とは、この大我とも言える久遠実成の釈迦から「派生」した心を持っていると言う事。だから本来は涅槃も無ければ出現するという存在ではなく、常に人々の心の奥底に「常住」しているのであると。

 ここで少し視点を変えて、臨死体験の例で、彗星ハンターと呼ばれる木内鶴彦氏の体験の中に、とても興味深い内容がありましたので少し引用します。

「臨死状態になったとき、私はひたひたと近づいてくる大きな「我(われ)」の存在を感じました。この「我」こそが、肉体を離れた私たちの意識が集まる場所なのではないかと思います」

 ここで木内氏が「我」と呼んでいるのは、自他彼私という一般的な自我というものではなく、全ての全体が統一された「我」だと表現していました。そして木内氏はこの我の元で、他者も我であり、他の生きとし生けるもの全てが我であるという感覚を理解したと言います。

 実はこれに似た話としては、アメリカの現役脳外科医である、アレキサンダー・エベン氏も、自身の臨死体験の中で似たような感覚を受けた様です。また「チベット死者の書」の中にも、臨終に際して自己の心の奥底から現れる真理(これを大日如来と呼んでます)があり、それと同化出来るかが、輪廻から離脱できるかのカギであると書いてあります。

 つまり法華経で説かれている「久遠実成の釈迦」とは、全ての人の心の奥底にある存在であり、日常生活の中では自我の中に埋もれており、けして気づく事はありません。しかし一人ひとりは独立した自我を持つように思えても、全体として「久遠実成の釈迦」という大我ともいえる心を通して、互いにつながり同じ心を根っこに持つ存在であるという事なのかもしれません。

 また人類が、この自身の心の姿を理解する事が出来れば、人類社会の在り方についても、当然今とは変わった社会形態になりえたのかもしれないのではないか。私はその様にも考えてしまうのです。


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