さて、前の記事までで御義口伝に書かれている御題目の意義について少し振り返ってきました。もともと南無妙法蓮華経というのは、天台宗の勤行の中でも唱えられており(今の創価学会の様に百万遍とかそういうものでは無かったと思われますが)、それを日蓮は末法の仏法の要諦であり肝心であるという事で、人々の間に弘めました。
当時の日蓮の信徒の中には、鎌倉幕府の要人も居ましたが、多くの市井の庶民も居た事でしょう。当時は「南無阿弥陀仏」と、今の人生を捨て来世の極楽浄土への往生を願い、念仏を称える人達が多かったと思います。唱法華題目抄ではお題目を唱える功徳の大きさを語っていますが、その功徳とは「極楽往生」をひたすら願うという事ではなく、自分自身が実はそのまま「仏の当体」である事を「信じる」という事に主眼を置いていたと思います。
信心とは「組織の指導や、その指導者の言葉を信じる」という事ではなく、自分自身が「仏の当体」であると「信じる心」を指し、日蓮が門信徒に求めたのもそういった事であったと思うのです。
「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず」
(妙密上人御消息)
この言葉とは、そういう日蓮の思いもあっての言葉ではなかったのか、私はその様に思えてならないのです。
御義口伝で南無妙法蓮華経の事を読むと、そこには多くの意義が語られ、それぞれに法華経の本来の意義が語られていましたが、私達がお題目を唱える場合、そういった意義のある言葉であると心で思いながら、お題目を唱えるべきなのかもしれません。
「祈りとして叶わざる無し」「この御本尊に御題目と唱えれば何でも叶う」
「大勝利を祈願しよう!」「極悪撲滅を祈ろう!」「会員の幸福を祈ろう!」
そんな事で唱えるものでは無いと思うんですけどね、私は。私は創価学会の幹部の中で、長年に亘り幹部を続けてきた人達にある、人格破綻者の様な気質とは、この御題目への姿勢を間違えた事が要因なのではないかと感じています。
ましてや、
「池田先生や奥様の長寿・御健康を祈りましょう!」
そんな為の御題目ではありません。
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」
(四条金吾殿御返事)
これは苦境の最中にあった信徒の四条金吾に与えた有名な御書ですが、ここでは「苦しみからの解放」とか「苦しみからの転換」なんて言葉は語っていません。「苦しい事はしっかりと認識し、楽しい事があれば、それに心を開きながら、苦楽共に思い合せて」とあります。つまり目の前にある現実から目を背けず、お題目を唱えながら生きていきなさいと言うのです。ここにある日蓮の言葉は、けして「御呪いの御題目」なんて述べていないのです。
ここに「これあに自受法楽にあらずや」と言う様に、その様に御題目を唱えていく中で、その苦楽全てが「自受法楽(自ら受け法楽となす)」という事が理解できると言っているのは、とても意味のある事だと、私は思うのです。
「能く能く之を思う可し已上」と御義口伝では締められていますが、お題目を唱える以上、こういった事は思う(考える)べきなのではないでしょうか。