(参考イメージ:ミドルエッジから引用)
このブログでも、過去に考察してきた事なんですが、記事を更新します。
はたして「私」とは何者なのでしょうか。ふとそんな事を考えた事はありませんか?
私の中にある遠い記憶には、今は既に八十歳を越えて施設で生活している母親がいますが、私が三歳の頃、当時住んでいたアパートの周辺にあった空き地で、母親に手を引かれて遊んでいる記憶があります。また幼稚園で教室の出入り口の引き戸が引っ張った際に外れてしまい、ガラスを割ってしまい、先生に叱られた記憶もあったりします。
いや~、あの時は恥ずかしいやら情けないやらの感情を、今でも記憶しています。
高校生の時には、当時、吹奏楽部をやっていましたが、心を寄せていた同級生の女子と一緒に帰り、途中に喫茶店に入った記憶もありますが、それは今思い出しても甘酸っぱい記憶として残っています。
そんな思い出を思い出していたある時、ふと思いました。それは。
「この過去の出来事で、遊んでいて楽しいと感じた私、恥ずかしいと感じた私、情けないと感じた私、また甘酸っぱいと感じた私と、この五十代も半ばを越えた今の私。果たしてこれらは全て本当に”同じ私”なのか。」という事です。
こんな話をすると「何を馬鹿な事を。あたまオカシインでね?」。そんな風に思うでしょう。
でもこの世界に生まれてから、今に至るまで、一貫して「同じ私」と感じる根っこには、「記憶」しかないんですよね。そう、生まれ出てから今に至るまでの記憶。それは瞬間瞬間に感じた感情の動きまで克明に覚えている「記憶」。それを以って、私は過去から今現在に至るまで「一貫して同じ私」という事を感じているに過ぎないのではないか。
そんな事を考えました。
例えば幼稚園時代に様々な出来事で、様々な喜怒哀楽を感じていたのは、実は「五十代の今と違う私」であったとしても、それを否定する事は出来ないですよね。そうは思いませんか?
「何を馬鹿な。自分は自分に決まっておろうが!!」
皆さんはそう考えるでしょう。
でもそれは飽くまでも、瞬間瞬間に自身の周りに起きる出来事と、それによって心の中で起きた感情を克明に記録している「記憶」により、その様に錯覚している可能性があるとは思いませんか?
天台教学では九識論がある事を以前にもここに書きました。しかし法相宗等の大乗仏教の唯識派の中には、九識を立てずに八識(阿頼耶識)を「心王(心の根源)」として立てたのも、実はこういった「私(自我)」と「記憶」の関係からではないのではないか、私はその様に考えています。
ちなみにこの唯識派によれば、自我の根源である「末那識(七識)」については、以下の様に述べています。
「八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。」
ここでは八識(阿頼耶識)には物事を慮る働きがあるが、間断なく明了に思量するのは末那識が一番優れている。この末那識とは睡眠中でも働き続け、八識(阿頼耶識)を対象として、それを自分だと思い執着し続けるのである。
これは私が感じている事に、とても近しい内容だったりするんですよね。
ただ私は八識(阿頼耶識=記憶)こそが心の源泉とは考えていません。阿頼耶識とはあくまでも「蔵識」であり、それは瞬間瞬間の出来事や感情を蓄積する心の働きでは無いかと思うのです。そしてその出来事や感情により、それをどの様に捉え、自分自身のものとするのか。そういう心の根源的な働きを生み出すのは、八識の更に奥にある「阿摩羅識(九識)」であり、それこそが私達の心の働きの根源なのではないか。そこは天台教学の九識論の方が、より実態に近いと考えているのです。
そしてこの「九識」のレベルでは、実は「自分」や「他者」という区別はなく、この世界の有情(生き物全て)に共通の心でもあり、人々や生きとし生きる全ての有情の存在は、この「九識」を共通の土壌としてつながっている。そういう事ではないでしょうか。
恐らくニール・ドナルドウォルッシュ氏が「神との対話」の中で対話している「神」というのも、この九識のレベルの自己との対話であったのかもしれませんね。そしてこれは数々ある臨死体験の中で「神」とか「仏」、また「光る根源の存在」というもの該当するものかもしれません。
またこの「九識」という根源的な心とは、単なる共通の土壌というだけではなく、この世界の仕組みや出来事、成り立ちについても理解しているのではないでしょうか。これを釈迦は「久遠実成の釈尊」と呼び、天台大師や日蓮は「九識心王真如の都」と呼んだのかもしれません。そして日蓮の図顕した文字曼荼羅とは、こういった九識から様々な姿へと展開している心の様相を、曼荼羅として認めたのかもしれませんね。
今の世界。人々ばかりではなく、生き物全般の有情の世界でも、断絶と区別化が進んでいます。社会は「自己」を大事にするあまり、他者との関係性すら分断して認識する思考が強まっています。そしてそこから人類の様々な悲劇が生まれてきている様に思えてなりません。
こういう考え方が「邪道」とか「間違えている」という前に、各々が少しでも自分の心の成り立ちについて思いを巡らし、理解しようという事が、今の時代では求められているのではないでしょうか。