「それこそ不信だ!日蓮大聖人への不敬であり大謗法だ!」
そう思われるのは構いませんが、何時までも鎌倉時代の解釈をそのまま語っても、現代には何も役に立たないのは明白です。法華経という経典を信じないと、国に災いが起きるとか、日蓮の文字曼荼羅をばら撒くと国が平和になるとか、ましてや弘安二年の大本尊を安置する国立戒壇が出来れば人類は救われるなんて、ある訳がありません。
2、立正安国論の基礎にあるもの
さて、立正安国論の基礎にあるもの、そこにある思想は何だかわかりますか?
こういう事を聞くと、創価学会の活動家等は答えるでしょう。「正法を確立して国や世界を平和にする事だろう。何を今更いってんだ!」なんて言うことを。
では何故日蓮は、金光明経や仁王経をこの安国論で多く引用したのでしょうか。そこについて考えた事ある人は、一体どれだけいるのでしょう。
日本に仏教が入ってきたのは奈良時代あたりで、朝鮮半島から伝来しました。そして日本では長きの間、僧侶は人々に仏教を布教することは禁じられていました。初めて大々的に人々の中に仏教を布教したのは、恐らく法然あたりの時代からだと思います。よく歴史で鎌倉仏教と呼びますが、僧侶が大手を奮って人々に弘教出来るようになったのは、この鎌倉時代からだったのです。
ではそれまでの僧侶の仕事は何かと言えば、基本的には国家の安寧を祈るのが仕事でした。経典を学び、講義して、儀式を行いその事で仏教の力で朝廷をトップとした日本という国の平和を事を祈るのです。
これを「国家鎮護」と呼びましたが、それこそが僧侶の役割だったのです。
僧侶は例えは「○○会」「○座○講」とか言っては、儀式として経典を講義したり、読経したりして、それらの経典の効力を以て国の安全を祈りました。特に金光明経や仁王経、そして法華経等は「国家鎮護三部経」といい、国を守る力を抜群に持っていると言われていました。
恐らく日蓮も、この国家鎮護を意識して立正安国論は書いたと思いますし、だから金光明経や仁王経、法華経等を多く引用したと思います。つまり立正安国論の基礎にあったのは、国家鎮護の仏教という考え方だったのです。
「賢王聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんとをもひしに」
(種種御振舞御書)
この御書でも「調伏」と日蓮は語っていますが、それが僧侶の大事な役割でもありました。しかし日蓮はそれが重要と考えていたかと言えば、それは無かったのかもしれません。しかし相手が政治権力を握る幕府であれば、やはりその考え方を全面にだしての諌曉(国の方針を諌める)だったと思います。
そういう事から考えてみた時、この立正安国論に引用される経典を、この21世紀も半ばになろうとする時代に、事細かに引用しても意味がないだろうと思うのです。