自燈明・法燈明の考察

宿業論の再考

 「因果応報」とか「因果の法則」など、様々な処で因果という言葉が使われます。これは原因は必ず結果として表れて、その報いを受けるという意味を示す言葉ですね。この辺りの事については、以前に書いた記事「十如是」で少し語りました。

 そして原因から報いを受けるまでの間、その原因となるモノを人の心は奥底で持ち続けると考え、その事を「業(ごう、カルマ)」と呼んでいます。
 人は常に何かを想い、そして行動し、そこで原因を作り出しては、心に業を刻みます。そしてその業は何かの縁に触れて発動し、結果として現れ報いを受ける。この一連のこころの働きの中で、因から報のあいだ、心に宿す業だから「宿業」とも呼ぶわけです。

 この因果の事と宿業については、実は仏教独自の思想ではなく、古代インドのバラモン教の教えにあったものです。考えてみれば仏教とはバラモン教の影響を少なからず受けており、その思想を受け入れています。また日蓮の教えと云うのも天台大師を始めとした天台宗の影響を受けています。因みに東アジア圏の仏教は中国の儒教や道教の影響を受けていたりします。
 小説家の五木寛之氏は自著「仏教の旅」の中で、宗教の土着化について考察していましたが、人々の間で宗教が定着するという事は、少なからずこの様な宗教の相互の混入という事は起きるようです。

 少し話がずれましたので、元に戻します。この宿業論では、一般的な考え方としては「因果応報」という形で理解をされています。簡単に言えば、過去世に泥棒であれば今世では貧乏になるとか、また過去に殺人をすれば、今度、自分が殺されるとか。要は何か前に話題となった「エントロピーの法則」の様に、足し算や引き算の様に考えられてます。

 そしてこの様な「宿業論」が生み出す事として、例えば身分差別や階層(カースト)という事があります。要は貧乏人に生まれたのも、そういうカーストに生まれたのも過去の宿業であり、それらは長い時間をかけ、輪廻転生の中で自分が償わなければいけない。その様な論理を作ってしまいます。

 こういった過去世の自分の行いで、今世に苦しまなければならないという宿業論を、実は仏教の開祖である釈迦は否定していたと言います。初期仏教において、輪廻転生を否定していたのも、そういう事ではなかったのかと言うのです。そしてこれは日蓮も同じであったと思います。文字曼荼羅にある「為現当二世(今の未来のため)」と言う文字に、私は同質な事を感じます。

◆宿業について
 考えてみれば宿業とはなんなのでしょうか。例えば物を奪う行為。これは仏教に於いても罪深い行為です。しかしビジネスの世界では「奪還案件」と言って、他社が固めていた案件を、別の会社がひっくり返して奪うという事は、当たり前の様にあります。また殺人行為は非人道的な行為ですが、例えば家畜の牛や豚について、人間は日々大量に殺害して、それを食し、一部は無駄に廃棄までしています。人に対しては重罪で、動物に対しては罪にすらならない。こうなると単に「行為」で罪の有無は語れない事になりますよね。
 しかし多くの宿業論では、人が行う行為に依って、その行為の罪の有無やそれにより刻まれる業の善悪が語られています。でもこれは片手落ちの論理でしかありません。考えてみれば法華経の十如是にも「宿業論」は出てきませんし、仏教でいう因果という話にも、業なるものは説かれていなくて、そこにあるのは原因を作り、それに見合った縁に触れたときに結果として現れ、それに応じた報いを受けると言う事でしょう。そして原因と結果についても、あくまでも自分の心に感じた事により、それ相応な結果と報いを得るという事ではありませんか?

 そこから考えてみると、因果の理法とか宿業論も、所詮は一人ひとりの心に依って起きるという解釈をした方が、よっぽど理に叶うように思えてなりません。

 家畜を殺すのは微罪で、人を殺すのは重罪。これは行為を行う側の心により罪の軽重がある。(ここで言う罪の軽重とは、行為を行った人自身が心で感じる事であり、社会で判断される事を指してません。人間社会では殺人行為は理由なく重罪なのです)またその結果や報いというのも、その心で感じた事に比例して起きるのではないでしょうか。

 ただしこれはあくまでも「宿業(カルマ)」による因果論とか因果応報という話があった場合の事です。しかし最近、臨死体験学等から見える宿業論とは、これとはかなり異なるようです。

◆臨死体験から見る宿業論
 近年でも死んだ人が生き返り、そこで体験した事を語りだすという事が比較的多く起きています。京都大学で臨死体験を研究しているカール・ベッカー教授は、日本には昔から多くの臨死体験に関する記録が残っているのだから、もっと研究すべきであるという事を語っていましたが、世界的に見てもこの「生き返り体験=臨死体験」は多く語られていました。ただ近年、特に欧米では臨床精神医療に携わっている医師等が、多くの臨床経験を元に研究していて、そこからこの「宿業(カルマ)」の考え方についても、新たな視点が見えてきている様です。

 J・L・ホイットン氏の著書「輪廻転生−驚くべき現代の神話」によれば、そこで展開されているカルマ(宿業)とは、人がこの世界に産まれ出る時に、自分自身が必要であると選択して来た事だとありました。生命にはそれぞれに課題があり、ある生命はエゴの強さを克服する事、またある生命には優柔不断を克服する事、また現在親子関係で問題があるのは、その親子同士の関係を持った相手との間に、時代を越えても解決すべき課題を持ち合わせて互いに今の関係として生まれてくる事もあるらしいのです。 
 だからこの著書では、因果応報という事と、カルマは違うと結論付けていました。またこの著書で紹介されていたのは、人生どん底の様に思えても、その個人の課題を明確に本人が理解する事で、状況はガラリと変化するということでした。そういう事もあったりするのかもしれませんね。

 因みにこの考え方は大乗仏教でも似たような事があります。それは「願兼於業(がんけんおごう)」と言い、これは菩薩が本来は背負わなくても良い宿業を、この娑婆世界に産まれ、法を広めるために敢えて背負って生まれてくる宿業という考え方です。

 人はこの現実社会を生きるのには、大小様々な苦悩や悩みは常に付きまとってきます。本当はそれが無ければ良いのにと想い、場合によってはその救いを宗教に求めます。しかしその苦悩の本質に対して、実は幅広く思索をする事で、そういった苦悩も別の姿が見えてくるのでは無いでしょうか。

 そのきっかけの一つとして、ここで書いた話がお役に立てれば幸いです。


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「仏教関連」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事