アンチ創価と言われる私ですが、それでも偶に御題目を唱えます。創価学会では以前に何かがあると「百万遍題目」なんて言って、長い期間に渡り、日々長時間の御題目を「祈祷師」の様に唱える事で問題解決が出来ると教えていました。
しかし前の記事で書きましたが「祈りが叶う、叶わない」という事については、確かに人の心の能力として「思考の具現化」という能力は持ち合わせています。しかし社会的な事もありますし、自身の心の構造もあるでしょう、そういう事から何時も「祈りが叶う」という訳ではないという事だと私は考えています。
そもそも「南無妙法蓮華経」という御題目をマントラ(呪文)の様に、ひたすら長時間唱えまくる事を、日蓮は果たして考えていたのでしょうか。私が御題目をマントラの様に唱えなくなったのも、実はこういった考えを持つに至ってからとなります。
「南無妙法蓮華経」自体は、天台宗の勤行の中でも日蓮以前に唱えられていましたし、そこではマントラの様に唱える事は無かった様です。そもそも日蓮も唱法華題目抄に於いて、以下の様に述べています。
「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし」
ここでは修行としては、本尊の前で「坐立行」と言い、立つか座るかして行う事を述べていますが、道場以外では姿勢は特に問わない。そしてそこで行うのは御題目を唱えるべきと言っていますが、本尊の前で長く唱えろとか多く唱えろという事では無いようです。また本尊についても文字曼荼羅という事ではありません。この文の前では「答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし」とあり、余裕があれば「十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」と述べているのです。
そもそもここでの修行とは、対出家者に対する「行儀」を言っているのであり、日蓮自身は信徒に対して御題目を一遍でも唱える事に功徳(御利益ではないですよ)があると述べていました。
では、そもそも「南無妙法蓮華経」という御題目には、どの様な意義を持っていると日蓮は言っていたのでしょうか。これは以前に 南無妙法蓮華経の意味① - 自燈明・法燈明の考察 という記事でまとめていますので、そこを見て頂けると幸いです。
今回はその上で、もう少し「御題目を唱える」という事について、私自身が考えている意義的なもについて記事にしてみたいと思います。
◆帰命という事について
「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経に帰依します」という言葉です。よく創価学会では「蛍光灯の理屈を知らなくても、電気をつければ明るくなると同じ様に、御題目を唱えれば幸せになる事が出来る」なんて教えていました。
しかし先の記事でも書いた様に、御題目を唱える(祈る行為)というのは、そこで何を信じてどんな事を祈るのか、それにより出てくる結果も異なる事になるのです。そうであれば単純に何でも良いから「題目唱えろ!そうしれば幸せになるんだ」という事だけ指導するのは、個人的にはかなり乱暴な指導だと思うのです。
せめて妙法蓮華経の教えの意味とか、唱える意義的な事はしっかりと教えるべきだと思いますが、そこに関して言えば創価学会もそうですし、宗門や顕正会等もかなりお座なり且つ大雑把では無いでしょうか。
御義口伝は後世の偽作だとも言われていますが、私はある程度、日蓮の言葉は此処にあると考えています。そこで御義口伝の「南無妙法蓮華経」の内容を見てみると、以下の記述があります。
「人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり」
ここでは「帰命」する対象には人と法があると言っています。人は釈尊とありますが、ここで言う釈尊とは法華経に説かれている釈尊を示し、法とは法華経を指します。何れにしても帰命する対象は法華経で説かれている事に帰命する事を指しています。
そして「帰命」という言葉の意義を述べていますが、まずこの帰命の「帰」とは、常に自身が立ち返るべき原点という意味があり、「命」とは、その原点に基づき行動する意味があるのです。つまり思想的な原点を持ち、それに基づき日常生活の行動をする事を「帰命」と呼んでいるのです。
ここでは「帰」については「迹門不変真如の理に帰する」と言っています。「迹門」とは「仮・方便の教え」と言う意味合いがあります。日蓮は「治病大小権実違目」という御書では以下の様に述べています。
「一念三千の観法に二つあり一には理二には事なり天台伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候」
この言葉と併せて考えるのであれば「迹門不変真如の理」とは、天台大師の述べた一念三千の事を指すと思うのです。この一念三千とは、実は天台大師の重要書でもある摩訶止観にすら明確に示されておらず、内観(座禅)する際の一つのヒントとして教えられていた事が、日蓮の「如来滅後五後百歳始観心本尊抄」にも述べられていました。
恐らく天台大師の述べたこの一念三千を、日蓮は「変わる事の無い真実の理論」であると考えていた事がこの部分からも読み取れますが、この後に「本門隨縁真如の智」とある様に、その真実の理論を、「縁に随い真実の智慧」として展開する事を「本門(最重要な事)」として考えていた事が判ります。
恐らく天台大師の述べたこの一念三千を、日蓮は「変わる事の無い真実の理論」であると考えていた事がこの部分からも読み取れますが、この後に「本門隨縁真如の智」とある様に、その真実の理論を、「縁に随い真実の智慧」として展開する事を「本門(最重要な事)」として考えていた事が判ります。
そして帰命するという事は「迹門不変真如の理」と「本門隨縁真如の智」の二つにより示される姿だと言う事を、この御義口伝では述べているのでは無いでしょうか。日蓮はここで「本門隨縁真如の智」に当たる事を、幕府への諌暁を通して迫害されるという現実を通して「法華経勧持品」「不軽菩薩品」で説かれる法華経の行者を実感するという事に、「身読」としての自負があった事は、御書の随所に書かれていました。
では私達は、この「帰命」という事を、自分の生き方の中でどの様に捉えて行けば良いのか、御題目を唱えるという事で言えば、そこをしっかりと考えなければならないと思うのです。
◆法華経で説き示されている事
御題目では、帰命の対象としているのが「法華経」です。では法華経にはどんな事が説かれているのでしょうか。これは久遠実成なのですが、そこでは私達の心の本質は「仏」だと述べています。しかしこの「仏」とは色相荘厳な仏だと思われていますが、実はそういった「仏」としての姿で現れる事もあれば、例えばインドで生まれ、出家までの苦悩する釈迦としても現れ、ジャータカ伝説で言えば、世の中の苦悩を救いたいと身を粉にして修行する過去世の釈迦の姿としても現れる存在を指します。
この事を考えてみると、要をまとめて言えば、法華経とは「自分自身が信じるに足る存在である」という事を説いた経典であると言っても良いかもしれません。
人生で様々な悩みを感じ、苦しみを感じ、時として自身の不甲斐なさを感じる事もあるでしょう。しかしその様に感じる自身の中には、仏教で説かれる色相荘厳の仏として現れる事もある「心の本質」を持ち合わせているのです。また周囲の人達も同様に同じ「心の本質」から出現している人達であり、自分とある意味で「同じ心の本質」を持った存在でもあるのです。
それを理解すれば、今どの様な境遇を自分自身が感じ、どの様な悩みや苦しみがあったとしても、「自分自身が信じるに足る存在である」という事、また社会の中でも「分断された存在ではない」という事を信じて、前に進むべきだと思えるはずです。
少なくとも私自身、最近はその様に信じる事としています。そしてそれを信じる為の言葉が「南無妙法蓮華経」だと理解しています。
こういった事は語る事が、もの凄い難しいんですよね。
でも私自身、半世紀も生きて来た中で感じる事とは、やはり「自分に不信感を持ってはならない」という事、自分自身を信じて行動する中で、解決できない問題はないし、それを体験する事がこの人生の目的なのでは無いかという事です。そして「南無妙法蓮華経」という題目は、それを自分自身に言い聞かせる為の言葉の様に感じているのです。
でも私自身、半世紀も生きて来た中で感じる事とは、やはり「自分に不信感を持ってはならない」という事、自分自身を信じて行動する中で、解決できない問題はないし、それを体験する事がこの人生の目的なのでは無いかという事です。そして「南無妙法蓮華経」という題目は、それを自分自身に言い聞かせる為の言葉の様に感じているのです。