自燈明・法燈明の考察

理解する事が大事なのでは?

 連日、テレワークに勤しんでいます。
 普通、事務所に出社すれば、何かある度に担当者と連絡とり、そこの席に言っては意見を聞いたり、隣の席の人間とたわいの無い話や、仕事せん社員に文句言うたりして、そこそこ動き回り、人と会話して仕事をしているのですが、テレワークというのはその関係を持つのも机の上のノートパソコンを介してなんですね。

 つまる処、気が付けば数時間も座りっぱなしで、緊張の糸というのが、夕方になるとぷつっ!と切れてしまうんです。

 こりゃ心身共にヤバい事かもしれませんが、この状況下でもテレワーク出来ずに、感染のリスクの高い中、必死に仕事をしている人には申し訳ない限りです。

 さて今日のお題。
 特に誰とかここでは書きませんが、なんで法華講という人や創価学会の活動家という人達は、日蓮とか仏教とか書くと、突っかかってくるんですかね。


 法華講の人で元創価学会の活動家は、特にたちが悪いのが多い様に思います。得てしてそういった人達は、脱会する前に様々な問題に直面し、その原因を「創価学会」に求め、そして法華講に移って改善したという体験している人が多いもんですから、そりゃ宗門の方たちにとっては、手ごろな尖兵になっていたりします。

「私は創価学会の偽本尊の害毒で不孝を経験した」
「その後、正しい日蓮正宗の信心に戻ったら、全て解決した」
「所詮、現証には過ぎず。なので日蓮正宗は正しかった」

 こんな感じで日蓮正宗から教えられた内容を、無批判で受け入れて自分自身の信条にしてしまっているので、もう、そこを変える事なんて当然出来ません。もう自身の人生の拠り所は日蓮正宗だと決めているので、対話できるレベルにはないんですね。

 メンドクサイったら、ありゃしない状況な訳です。

 そんで私が創価学会の問題点を指摘した記事なんて見ると、これ幸いとコメントしてくるのですが、私が宗門の事を認めないとなると、自身の体験を元にした狭い料簡の内容で「マウントポジション」を取りに来る。

「それはどこの文証なんですか?」「日蓮大聖人様の教えのどこにありますか?」

 そんな感じです。
 彼らにとって私は「邪見の徒」というレッテルを既に彼らの心の中で貼っているので、早勝ち問答さながら、とにかく文字や言葉のコンマイところを衝いて、覆そうとしてくるし、とにかく「自らの正義」を振りかざしマウントポジションばかり狙ってくる。

 もちろん、私も青年部の頃に創価学会の中で、宗門や顕正会に対して同じ言動を取ってきましたから、恐らくやればマウントポジションは取れるでしょう。でもね、そんな事は何も意味を為さないんですよ。マウントポジションを取った処で、宗教的な正義を信じ込んでいる人は、何も変わらないのですから。

 そんな無意味な事に労力を使うのが、もうこの歳になると、けったるくなってきているので、そういう人達は放置する事にしています。

 私は「単己」とハンドル名を付けていますが、これは「どこの組織にも集団にも属しないし、徒党を組んでする事もやらない」という意思表示なんですね。そもそも「宗教組織」が語る事には正義なんてのは無い事、百も千も理解してますから。

 往々にして、創価学会から法華講に行き、そこで「正しい法に巡り合えた」という人達は、創価学会を純粋真面目に信じてきた人達なんです。だから創価学会が実は「くだらない組織」と気が付いた時には、その心の中では「私は何を信じたら良いのか」と、信じる対象を模索していくんですね。そしてその模索する中で、体験的に感じてしまった事で、もうそこで模索は終わり、次にくるのは「信じる事」の強化を自身の心の中で始めてしまいます。

 要は信じてきた事に裏切られ、だから「次に」信じるもんを探す為に情報収集をして理解しようとしてきたわけです。

 ちなみに私ですが、創価学会の実態を知った後に考えたのは「本当のところ、どうなのよ?」という事なんですね。そこで学会の先輩で活動から先に離れた人と意見交換をした際に、その人は言ったわけです。「池田先生の心を忘れた官僚主義が原因なんだ」と。で、私は改めて考えたのは「池田先生ったって、自分は直接会話もした事が無いし、どんな人なん??」と、今度はそういう事を知っている人を探して、実際に某元幹部とか、某側近に近い人とかに、直に会って話を聞いたりしました。すると池田先生と言っても、生身の人間である事が解るわけです。
 人は思想で動くもの。創価学会も「正しい思想」を詠っていたのに、その中心者がそれってそういう事?という事から、書籍を読んだり、日興門流の他の人(出家者もいましたが)の話を聞いたり、また国会図書館に行ったり、御書を読んだりエトセトラ・・・するとそもそも創価学会も「あれ?」という事がありましたし、日興門流もその宗史にも「あれ?」という処が沢山ある事が理解できたわけです。

 「ではそもそも仏教とは?」
 「宗教の歴史ってどうなん??」

 そんな感じで十年以上やってきて、今が在る訳です。
 だから元学会員の法華講あたりから「では文証を教えて下さい!」「示してください!」なんて言われても、はいそうですか、なんて言うほど簡単ではない訳です。

 だからもう相手はしない。
 だって時間がもったいないから。

 私は思うのですが、宗教で躓いたのであれば、本来は躓いた自身の心と向き合い、その躓いた事を理解するという思考が大事だと思うのです。でも往々にして宗教で躓いた人というのは、すぐ次に信じるべき宗教を「信じたい」という事で求めてしまうんですよね。

 でもそれって、結局は宗教に振り回されているだけではありませんか?

 少しは考えてほしいものですね。




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