自燈明・法燈明の考察

煩悩即菩提について思う事

前の記事では、四諦について触れました。そこではこの現実世界(娑婆世界)とは人々が煩悩に執着し、それが故の苦悩の世界であると言い、その為にも修行によって煩悩を断ち切り解脱する事が大事だという、初期仏教の考え方について触れました。

 しかし大乗仏教では、この煩悩を滅するのではなく、煩悩がそのまま悟りとなるという説、「煩悩即菩提」という考え方があります。同じ仏教でありながら、片や煩悩を滅尽し、そこからの脱却をはかり安楽を求めるのに対し、もう片方ではその煩悩とは、実は即菩提(悟り)になると言うのです。

 初期仏教は僧伽(出家僧)を中心として展開・発展してきた事に対して、大乗仏教では在家を含めた教団として発生し、発展してきたという事から考えたら、そこからこの様な差分というのも起きてきたのではないかと、私は勝手に想像しています。

 なにせ普通の人間社会は、煩悩を否定したら成り立ちませんからね。皆が例えば物欲を断って、それこそ霞を食って生きるとなれば、商売は上がったりです。

 では「煩悩即菩提」とは、そもそもどの様な考え方なのか、まずはそこから見てみたいと思います。

◆煩悩即菩提
 この考え方には、般若心経に「空即是色・色即是空」とあるように、この世界にある目に見えるものは、全てが空(実体の無いもの)であり、また実体の無いものは、実は実体があり、目に見えるものとして捉えられると言います。ここから考えられるのは、この世界には確固たる物なんて無いという事と共に、実はそんなこの世界のありのままの姿こそが真如(真理)であると、捉える事も出来るといいます。

 こんな話はとても形而的であり、こういった話は議論を呼びやすく、この理論を展開すると、直ぐに「議論のドツボ」にハマっていきます。しかし仏教とはそもそも理屈を捏ねくり回しあう事が目的ではありませんので、もっと端的に言えば、煩悩も菩提(悟り)も共に真如(真実)であるならば、煩悩を離れて菩提は無いし、菩提を求める上でも煩悩も大事な事。煩悩と菩提は而二不ニ(二つであって実は二つではない)の関係である。つまり悩みも悟りも、共に二つに現れているが、実は共に真理の現れ方なのであるという考え方が、本来の煩悩即菩提という事なのかと思うわけです。

 しかしこの「煩悩即菩提」という考え方は、得てして誤解をされてしまってます。それは本覚思想という、人は本来覚りを得ているという思想では、ここで言う煩悩を利用して覚りを得るという解釈がとても多いことで、そこから煩悩を全面肯定し、その煩悩のままで生きることが「煩悩即菩提」だと解釈してしまう事です。

 「本覚思想」なんて言うから分からないので、端的に言えば創価学会をはじめとして、日蓮系の現世ご利益を求める宗教等が現代では本覚思想にあたり、そこではこの教理を大きく誤解をしています。

◆間違われた煩悩即菩提
 こと創価学会を例にとって、どの様に間違えているのか、説明しましょう。創価学会ではこの煩悩即菩提を「薪(煩悩)をもやして明かり(菩提)を得る」と教えてます。要は菩提の燃料として煩悩があると言うのです。もっと具体的に言えば、悩みが深ければ深いほど(煩悩)、それを乗り越えようと御題目を唱え、宿命転換(菩提)が出来ると教えています、一見するとなるほどな、なんて関心もしますが、よく良く考えてみると、これでは煩悩をもって、執着ばかりを強固にし、悩みが多ければ多いほど、深ければ深いほど、創価学会という宗教組織への依存度が強固になってしまいます。そもそも「宿命転換」なる事や「人間革命」なんて考え方も仏教には無い言葉なんですから、これではエセ仏教と言われても致し方ないでしょう。

 そして創価学会では、これで乗り越えた信仰体験が多いことを「信心の確信が深まった」といいますが、それは創価学会の宗教組織への依存度が高まっただけであり、もし創価学会がなくなれば、この人達の人生も瓦解するという事にもなるのです。

 それのどこが、成仏と関係してくるのでしょうね。冷静に仏教を考えてみればわかる話です。

 だから創価学会を真面目にやり、ある時にふと、創価学会のおかしな事を知ったとします。すると取りうる行動は二つに別れます。それは思考を停止して現実から目を背けるか、または思考をしていき、創価学会の組織から離れるか。そして離れる場合、多くの人は「信仰」という事に悩み不安を感じ、人によっては心を病んでしまうのです。

 その問題の根っこの一つに、この「煩悩即菩提」に対する間違えた認識が関係してくるのです。

◆本来の煩悩即菩提とは
 本来の意味からすれば、煩悩と菩提はけして対局ではなく、「而ニ不ニ(二つであって二つではない)」の関係であると、まずはしっかりと決めることです。煩悩の先に菩提があるとか、煩悩を利用して菩提を得るとかいう事ではなく、煩悩も菩提も真如(真理)であり、共に自分の今の人生の姿であると理解すべきです。理解が難しければ信じることです。
 そしてそこから、自分の今の人生、本来はどうあるべきか、何を為すべきなのかを考えることがとても大事になってくるのではありませんか?

 人生でめぐり逢う、幸や不幸、喜怒哀楽には必ず自分に意味のあることなのです。だからその意味を掴むべく努力する。そこに本来の煩悩即菩提の言葉が指す意味があると、私は考えているのです。



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