自燈明・法燈明の考察

輪廻転生に関する考察②

 昨日に引き続きで輪廻転生に関する考察をつづけてみます。この番組を見て思ったのは、やはり「自我」と「記憶」の関係性とは何なのか、という事についてでした。果たして本当に「前世記憶を持つ子供」というのは、亡くなった人の人格なのか、という事です。



 確かにここで紹介された子供達は、とてもリアルに前世体験を語ります。それはまさに経験した人物でしか語る事が出来ない様な内容ばかりです。前世で体験した事、それにより受けた感情、そして死に際の経験やその時の心の中の模様など。とても生なましい表現で語ります。この記憶のあまりのリアルさに、多くの前世記憶を持つ子供達の中には、新たなトラウマを受けてしまっている子供も多くいるようです。

 仏教の中の唯識派(瑜伽唯識派)の思想では、心の本質(心王)は阿頼耶識(蔵識)だと述べていますが、この子供達の証言を見ていると、やはり記憶というのは、自我を考える上で、とても重要なファクタである事が解ります。

 ただこの前世記憶を持つ子供達が、成長していく過程でこの記憶の事について、今の自分の人格とは別なものと理解して受け入れている発言が多くありました。そこを考えてみると、果たしてこの記憶にある人格が丸々そのまま私達がいま考えている「生まれ変わり」の様な同一人格として単純に該当するのか、そこについてはもう少し考えて見る必要があるのではないでしょうか。

 天台大師の打ち立てた思想で、日蓮も受け継いだという法華経の思想では、こういう事について、どの様に解釈したらのいのか。私は日蓮をキッカケとして少し仏教について学びましたので、私見ですがこの観点で少し書いてみたいとおもいます。

 天台宗の教義によれば、心の本質(心王)とは記憶(阿頼耶識)ではなく、その更に奥に阿摩羅識(九識)という識を立てて、其れこそが人の心の本質だと述べています。つまり過去からのあらゆる記憶の更に奥に、その記憶をも生み出すものがあると言うのです。この天台宗の教義は、法華経如来寿量品の久遠実成という事から派生していますが、法華経ではこの事をどの様に説かれているのか。そこについて振り返りをしてみます。

 幾度かこのブログでも書きましたが、久遠実成とは五百塵点劫という、人間が思惟出来る範囲の枠外ともなる程の長遠な過去に、既に釈迦は悟りを開き、成仏していたという内容です。
 それまでの大乗仏教では、釈迦は過去遠々刧から様々な仏の元で必死に修行に励み、そこで智慧を磨き、様々な事を教わってきたと言います。そして前世において燃燈仏という仏の時代の修行で、燃燈仏から「来世に貴方は釈迦という名前の仏になる」と記別をうけ、今世となり菩提樹の下で結跏趺坐して悟りを開いたと説かれていました。

 一般的にこの成仏観を「成仏」と呼び、成仏するためには輪廻を繰り返し、その中で長きにわたり修行を重ね、退転せずに勇猛精進する事が必要で、その結果として仏になると説かれていました。

 しかし如来寿量品では、冒頭に釈迦は以下の事を語りました。

「一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。」

 ここでは世間の人達は、釈迦が王宮を出て道場に座禅瞑想して悟りを得たと考えているだろう。しかし私が成仏してからこれまで無量の時間を経ているのであると宣言するのです。そして続けてこの様に説きます。

「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」

 ここで釈迦は推し量る事が出来ない大昔から、常にこの娑婆世界で法を説き、数えきれない国々の人々を導いてきたと言い、その中では私(久遠に成仏した釈迦)は燃燈仏という仏であると述べ、また涅槃に入るとも述べてきた。これらの出来事はすべてが方便(衆生を仏にするため)をもって、見極めながら人々を教え導いてきた姿だと言うのです。

 ここは皆がサラリと見過ごしてしまう箇所です。燃燈仏という仏も久遠実成の釈迦の方便の姿であるとここで述べていますが、その一方でここで法華経を説く釈迦は、過去において燃燈仏から釈迦如来の記別を受けた人であり、その釈迦が久遠実成の釈迦であると明かすのです。

 つまり教えを説いた師匠でもある燃燈仏も、その教えによって成仏したという弟子も、ともに「久遠実成の釈迦」が娑婆世界に出現した姿であるという事を、ここで明確に述べているのです。これはつまりこの娑婆世界のすべての有情(生命をもち生きる存在)は久遠実成の釈尊の姿であると言う事でしょう。

 私達はこの人生を生きる中で、自分と他者を切り分けて思考します。ここでは「自分」と「他人」という風に、見た目も異なれば経験も違う、そして何よりも持ち合わせている「自我」が異なる存在と認識して生きていますが、法華経の観点で言えば、そもそも自分も他人も、それはすべて同じ「久遠実成の釈尊」がこの娑婆世界に出現している姿だと説いているのです。

 この事について日蓮は開目抄の中で、以下の様に述べています。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」

 ここで日蓮は、本門(如来寿量品)で、始成正覚(この世界で成仏したという考え方)を否定する事で、それまでの歴劫修行の結果としての成仏という姿を釈迦は否定したのだと言います。そしてこの従来の成仏観(四教の果)を否定するという事で、従来の大乗仏教で説かれた仏と衆生という関係性をも否定したのです。そしてそこに本来の十界の姿を顕したのであると言い、その姿というのが「九界(この娑婆世界での各自の姿)」は始まりも終わりも無く元来から具わる仏界の姿であり、この仏界の姿も生々世々に生きる私達九界の姿の中に顕れるというのです。そしてこれが本来の一念三千の姿であると言うのです。

 ちょっと込み入った文言となってしまいました。
 ここでこの仏教の観点から要約して、先の「前世記憶を持つ子供たち」を考えてみた場合、そういった前世記憶というのは、あっておかしな現象ではなく、その経験している「前世の人格」とは、子供たちの人格とは別モノでは無いという事でしょう。ただそこの人格となる「心」とは、過去も現在も、また未来においても、共に共通の「心の本質」から派生しているものであるのかもしれません。個々に認識する自我はありますが、それは人類や生命の根本にある「仏界=阿摩羅識」という根源から派生している自我なのである。

 んー、、文字に表すとやはり難しい事ですね。もう少し続けたいと思います。


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