戸田会長の「生命の本質論」について続けます。
この論では三世の生命の後、永遠の生命という事でその長さについて論究しています。
◆永遠の生命
ここでは如来寿量品の冒頭分を戸田会長は取り上げています。
「人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん。これこそ、また、仏法の根幹であるゆえに、いま下の経文を引用する。
妙法蓮華経如来寿量品にいわく
「然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫(なゆたこう)なり。譬(たと)えば、五百千万億那由佗阿僧ぎの三千大千世界を、仮使(たとい)人有(あ)って、沫(まつ)して微塵(みじん)と為して、東方五百千万億那由佗阿僧ぎの国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意(こころ)に於て云何(いかん)。是の諸の世界は、思惟(しゆい)し校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや不(いな)や。弥勒菩薩等、倶(とも)に仏にもうして言(もう)さく。世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数(さんじゅ)の知る所に非ず。亦心力(しんりき)の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏(ひゃくしぶつ)、無漏智(むろち)を以ても、思惟(しゆい)してその限数(げんじゅ)を知ること能わじ。我等阿惟超越致地(あゆいおつちぢ)に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。世尊、是(かく)の如き諸(もろもろ)の世界無量無辺なり。爾(そ)の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸(もろもろ)の善男子、今当(まさ)に分明(ふんみょう)に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著(お)き、及び著(お)かざる者を、尽(ことごと)く以て塵(ちり)と為(な)して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来(このかた)、復(また)此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧ぎ劫なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在(あ)って説法教化す」」
妙法蓮華経如来寿量品にいわく
「然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫(なゆたこう)なり。譬(たと)えば、五百千万億那由佗阿僧ぎの三千大千世界を、仮使(たとい)人有(あ)って、沫(まつ)して微塵(みじん)と為して、東方五百千万億那由佗阿僧ぎの国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意(こころ)に於て云何(いかん)。是の諸の世界は、思惟(しゆい)し校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや不(いな)や。弥勒菩薩等、倶(とも)に仏にもうして言(もう)さく。世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数(さんじゅ)の知る所に非ず。亦心力(しんりき)の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏(ひゃくしぶつ)、無漏智(むろち)を以ても、思惟(しゆい)してその限数(げんじゅ)を知ること能わじ。我等阿惟超越致地(あゆいおつちぢ)に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。世尊、是(かく)の如き諸(もろもろ)の世界無量無辺なり。爾(そ)の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸(もろもろ)の善男子、今当(まさ)に分明(ふんみょう)に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著(お)き、及び著(お)かざる者を、尽(ことごと)く以て塵(ちり)と為(な)して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来(このかた)、復(また)此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧ぎ劫なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在(あ)って説法教化す」」
この五百塵点劫について戸田会長は「自分の生命は現世だけのものではなく、また、悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。」と述べています。
しかしこの様な五百塵点劫という、想像すらできない時間をなぜ久遠実成という事で述べたのか、これは実は「永遠」とかいう様な時間的なスパンを示したものでは無いという話があります。それはインドにおける表現方法であり、その時間的な枠では無い事を示す為に、わざと想像も出来ない長遠な時間を示す手法がインドにはあり、五百塵点劫とはその表現に基づいたものだと言うのです。
ここから私は「人は元来から仏である」という考え方を持ちました。
この五百塵点劫について、如来寿量品には以下の様な事が説かれています。
「弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。」
これは釈尊が五百塵点劫を述べた後、弟子達に対して「この世界の数を思惟して計れるだろうか」という質問に対して、弥勒菩薩が代表して答えたもので、ここで弥勒菩薩は答えます「世界の数は無量無辺であり、数学的に理解する事が出来ません。また全ての学者(声聞・縁覚)が漏れのない智慧を持っても思惟する事が出来ませんし、私達の境涯でも理解しえない事です」と。
つまり端的に言えば、五百塵点劫という時間は、数学的には表現できないし、その枠には収まらない話だと述べているのです。
その様な「五百塵点劫」という表現を、敢えて数学的に論じ、それをも「期限のある時間」として仮定して、その五百塵点劫も昨日の様な更に遥かな昔に成仏したとしているのが「久遠元初」という考え方であり、賢樹院日寛師の説く日蓮本仏論なのです。そこでは日蓮はその久遠元初に成道した本仏だとしています。
ちなみに戸田会長もこの生命論においては、三世諸仏総勘文教相廃立という御書を引用して、この日蓮本仏論について展開をしています。
「釈迦如来・五百塵点劫(じんてんごう)の当初・凡夫にて御坐(おわ)せし時我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟を開き給いき。後に化他(けた)の為に世世(せせ)・番番(ばんばん)に出世・成道(じょうどう)し在在(ざいざい)・処処(しょしょ)に八相作仏(そうさぶつ)云云」
ここでは「釈迦如来が五百塵点劫の当初」という文言がありますが、素で読み取れば、五百塵点劫の久遠の昔、釈尊が悟りを開いた時を「当初」と表現している様に読み取れますが、何故かこれを「五百塵点劫の当初(そのかみ)」と読み替えて、「久遠元初」という、五百塵点劫よりさらに昔の事だという読み替えが為されています。
戸田会長の言う「生命は永遠」という事の背景には、やはり賢樹院日寛師の教学が脈打っており、その上から論じられているのが、こういった部分からも判るのです。
戸田会長は語ります。
「生命とは宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは、なにびとかによってつくられて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。われわれは広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観・事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって「妙」なる生命の実体把握(はあく)を励んでいるのにほかならない。」
確かにこの宇宙には命は普遍的に存在するでしょう。時間的な制約はそこにはありません。キリスト教に於いては過去、この世界には人類しか智慧はもたず、動植物については「神からの恩寵」の様に神から人類に与えられたモノだという思想がありました。しかし近年では他の惑星にも命は存在し、宇宙にある数多な星系には知的生命も存在すると言う考え方にシフトしています。この宇宙は命に溢れているというのは、恐らく間違いない事でしょう。
しかしその満ち溢れた命の「生命の実体把握」について、賢樹院日寛師の教学の枠では、逆に歪な事になりはしないか、私はその様に思ったりもするのです。
(続く)