自燈明・法燈明の考察

仏罰について

 活動を辞めて組織から一切手を引いた当時、仕事も多忙を極めており、家に帰宅するのは何時も午前様でした。帰宅すると「メモ書き」が置かれていたり、携帯電話には100件くらいの着信履歴が入っていました。

 これらすべては先輩幹部諸氏からのものでした。
 でもそんな事は気にもせず、とにかく日々仕事に没頭していました。

 そんなある時、ある壮年部の先輩(男子部で活動を始めた時の男子部の部長)に捕まってしまいました。ついつい着信電話に出てしまったんですね。

 この時に言われたのは以下の言葉でした。

「いいか斉藤、駿馬(優れた馬)はムチを入れられる前に走るものなんだ。だから早く活動の現場に戻ってこい」
「親の宿業は子供に出てくるんだから、早い方がいいぞ」

 当時、嫁は二番目の子供を宿した身重な体でしたので、私はこの先輩に聞きました。

「それは生まれてくる子供に何かあるという事を言ってますか?」

 すると先輩は「さあね」とすげない言葉。電話の先で含み笑いを浮かべている様な感じでした。

 よく創価学会では、組織を離れると「仏罰」という現証が出ると言われています。組織を離れて幸福は無い、組織を退転したら不幸の現証を受け、それで学会の正しさや重要性を身を以って知る事が出来る。なんて事も言っていたのです。

 ただこの事については、私は活動家幹部の時から、常に疑問に思っていました。私はこの事について、当時から別の観点を持っていました。それは以下の様なものです。

◆人の幸福や不幸とは、何も他者から与えられるものでは無い。
◆仏罰なんて事は存在しない。それは自身の思い込みが招来するもので、大事な事は、自分がどの様に感じているかだ。

 私は男子部時代に広宣部をやっていましたが、そこでは多くの法華講や顕正会と対論してきました。そもそも創価学会が言う「仏罰」があるのであれば、何故、日顕師が元気で居られるのか。浅井氏がお盛んで要られるのか。これは法華講幹部で地元で「仏敵」と呼んでいる人物に対しても同じ事が云えたのですが、創価学会の脱会活動に生き生きと活動している人は、何故か元気だったりしていたのです。

 興味深かったのは、対論した法華講幹部に、文証を持って徹底的に突き詰め、相手が動揺した時に「そんな事をしていたら、現証として出てくるぞ!」と言い切ると、興味深い事なのですが、それから時を経ずに何かしらの問題を抱え込む法華講員が多くいました。
 逆に何ら動揺すらしない法華講員に対して、同じ言葉を投げかけていても、何も起こらないというのが常でもあったのです。

 まあ今から考えたら、何とも非人道的な事をしていたものだと反省もしますが、これが私が広宣部という活動の中で感じていた事だったのです。これについて日蓮の御書には以下の言葉がありました。

「一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心法界に偏満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず蘇法なり」
(一生成仏抄)

 要は自分自身の生活する環境は、全てが一念(心の想い)から出てくるものであるし、それを理解しなければ、それは妙法では無いというのです。

 仏教とは「内道」と言います。内道とは「心の内の道」であり、全ては自身の心に依ると言う教えです。そうであれば、幸福や不幸というのも、自分の一念から発生する事であり、それによって現れる姿も変わってくると言う事なのではないか。

 つまり法華講でも、自分自身が信じている事に「不安」を抱えているのであれば、何かを切っ掛けにそれは仏罰として現れる事もあるだろうし、不安を微塵も抱えていないのであれば、仏罰というのは微塵も起きる事が無い。日顕師が元気で生活できているのは、本人の中で、創価学会との抗争に何も不安を感じて無いという事の現れと理解すべきなんだろう。

 私が広宣部の経験の中で「罰」という現証について、この様に理解していました。

 だから先輩である壮年部の幹部が、「駿馬は~」とか「親の業は~」なんて言葉を言われても、私自身、組織活動を辞めたという事については、微塵も迷いが無かったので、現証として「仏罰」なんてある訳が無い。何をこの人達は無慈悲な言葉を平気で口にするのか、という、とても人間として残念な姿を見た思いがしたのです。

 それから既に十年以上経過していますが、未だに私の上には「仏罰」なんて事も起きていませんし、家族は日々元気に過ごしています。

 そしてこれは「仏罰」という事だけではなく、創価学会や宗門でいう「功徳(御利益)」についても同様な事が言えるのです。逆もまた真なのです。

 創価学会などでは「功徳(御利益)」も創価学会等の組織活動、また学会が本尊と定めている「日蓮の文字曼荼羅」に「血脈」や「法力」の様なものが在る様に捉えられていますが、実はそれを信じて疑わない人には、そういった効力という事で出てくるものであって、実はその信仰に相対する人の心によって、そういった現証というのが顕現するのでしょう。

 これを広げて考えてみると、そういった宗教や信仰の力用というのは、何も特定の宗教に限定されるものではなく、それを信じる人達の心に依ってこういった信仰体験の有無があるという事にもなるのです。

 だから創価学会以外でも、宗門や顕正会、イスラム教やキリスト教、果てはアレフ(昔のオウム真理教)でも信仰体験があるのは、ある意味で当然の事だと思うのです。

 こういった事を、実は日蓮も知っていたのでしょう。

「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」
(唱法華題目抄)

 ご存知のように、日蓮は法の正邪を突き詰めていった鎌倉時代の仏教僧ですが、その法の正邪とは「利根と通力」とここでは呼んでいますが、そんな現証主義とは別の次元で語るべきものだと、ここでは述べています。

 だから私も、活動を辞めた時、こういった仏罰論という事に動揺する事は無かったのです。


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