自燈明・法燈明の考察

人の進化に宗教は不要では

 公明党の遠山清彦議員が、緊急事態宣言下にクラブで飲食ばかりではなく、キャバクラ費用も政治活動費から支出している事が「バレて」、議員辞職の憂き目にあっています。個人的に言わせてもらえば、私が男子部なりたての頃に、公明党議員とは「清廉な政治家を志す人」であり「創価学会の同じ信心をする同志」であるという事で支援していると教わりました。



 しかし長年に渡り公明党を見ていると、そうも見えない議員も国会や地方議会でも多く見て来て、その事から戸田会長の遺言である「政治を監視せよ」ではありませんが、壮年部になり幹部などに問題提起をしてきたのですが、結論としては「お前はいらない」「私達は安心して戦えば(選挙活動すれば)よい」という言葉で終わらされてしまいました。

 創価学会が反戦平和の組織という名目を掲げるのであれば、この遠山議員に関しては、深夜のクラブ通いとか、キャバクラ費用の支出という以前に、日本会議からの声明文を受け取り「憲法改正します!」みたいな態度をとっている時点で、組織内では問題視されて当然かと思いましたが、日本会議の会合に出席して声明文を受け取る動画には、何も反応すらせずに、今回の様な遊興沙汰で問題になるという、この組織の感覚はどうなのかとも私は個人的に思うのです。

 しかし今の創価学会では組織活動(彼らは仏法の修行とか言っていますが)の柱の一つが「公明党への集票活動、一部は自民党への支援活動」になっている事もあり、こういった遠山議員の様な、ある意味で感覚のトチ狂った議員であったとしても、信濃町の宗教貴族から「それが今の戦いなんだ」と教えられたら、無条件に支援してしまうわけで、ここに宗教に操られる人の典型的な姿を見てしまうのです。

 公明党の政治家で、おかしな輩が多く出続けるのも、こういった創価学会の方針と、それにより醸成された組織文化の為せる業と言ってもいいでしょう。

 少し話を変えますが、以前に「エデンの神々」という本を読んだ時、その著者であるウィリアム・ブラムリー氏は、古代から人類を操る道具として宗教は使われてきたと分析していました。
 彼によれば、人類の中にある宗教とは、大別して二種類に分類されると言うのです。一つは「カストディアン宗教(管理のための宗教)」、もう一つは「マーベリック宗教(一匹オオカミ的な宗教)」です。
 カストディアン宗教とは「神話など」を通して「黙示録」で表されるように、いずれは神から審判を受け、罰せられるという様な教えをてこにして、人々の中に恐怖を受け付けながら、人々を誘引していく宗教だと言います。彼によればキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などの一神教にこの傾向が見えると言っています。そしてマーベリック宗教とは、人の内面にある霊性に目を向け、自己の内発的な面に目を向けていく宗教だとし、仏教などがそれにあたるというのです。しかし彼によればいまある仏教はカストディアン的なモノに変質していると言うのです。

 人類には太古の昔から様々な神話があります。ここで神話というのは主に旧約聖書に書かれている物語や、シュメール神話に見られる話しです。そして神話の多くに書かれているのは、人々とは神々の下僕の様な扱いを受けながら、神に導かれるという話ですが、これはつまり宗教によって、人々を縛り付ける思想でもあり、太古の昔から人類はこの「カストディアン宗教」によって制御されてきた。これがウィリアム・ブラムリー氏の研究してきた結論で、それは現代においても脈々と受け継がれてきているというのです。

 ここから先は、下にリンクを置きますので興味があれば、各自で読んで欲しい処ですが、やはり人間の心の奥底には「宗教」に対して「無条件に能動的に従う」という働きがあると思うのです。これは宗教を信じる人は、否定するかもしれませんが、この人間の持っている宗教に対する脆弱性を、一番理解しているのは、実は宗教家と言われる人達ではないでしょうか。創価学会という教団で言えば、信濃町に住んでいる宗教貴族やその関係者です。

 彼らは宗教を巧みに利用する事で、その宗教を信じる人々を誘導し、自分達の利益にかなう様な方向性で動かしています。そしてその宗教を信じている人達は、誘導されているという自覚も無しに、まさに自発的な信仰心の発露から、誘導されている行動を自分の行動と思い込み、うまく利用されているのでは無いかと私は思います。

 なぜこう思うかというと、自分自身が創価学会という宗教団体の活動を止めて、十年間にわたり、離れた場所から創価学会の活動家と言う人達を見て来たからです。

 創価学会は先のウィリアム・ブラムリー氏の分類でいえば、マーベリックな宗教と言う感じに見せていますが、明確にカストディアン的な宗教ですよ。活動家幹部になれば、まさに信濃町の宗教貴族に操作されています。

 いま世界は新型コロナ禍で大変な事になっています。この「大変」という事ですが「大きな変化の時」でもあります。そして人類がこの先にも、この地球上で生きていくためには「宗教から離れる」という精神的な進化が必要なのではないかと思うのです。

 個人個人の生きる信条としての信仰は必要かもしれませんが、信仰の中軸にある教義を誰かに講釈され、それを鵜呑みにして群れて信仰するという事ではなく、一人ひとりがこの世界に生まれてきた意味を考え、自分自身の考え方として信仰する。そういう事で良いのではないでしょうか。

 この時代、こういった事をちょっと立ち止まって考えてみても、良いのではないかと思うのです。


 

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