今日も酷暑な一日ですが、この記事は散歩しながら書いています。テレビをつけるとさすがオリンピック期間で、どこもかしこもオリンピックの話題だらけ。私なんかはオリンピック・パラリンピック閉会後の日本について考えてしまうので、どうも燥ぐ気にはなれませんし、ついつい苛ついてきてしまいます。
こんな時には散歩するのが一番と、酷暑の中ですが散歩に出ています。
さて、私は創価学会で若き日は活動に励んで来ましたが、果たしてそれは人生にとって有用な日々だったのか。それは未だに答えは出ていません。思いとしては意味があったと信じたい事なのですが、恐らく答えが出るのはもう少し先の様です。ただ創価学会に居たからこそ、考えるという癖も付きましたし、仏教にも多少縁することが出来ました。

さて、いま世界にある宗教の多くは「信じる事」を信徒に求めます。自分たちの宗教の聖人を信じ、教えを信じ、教団組織を信じる。そしてその先には「殉教」というものを求めます。殉教とは宗教の教えや組織に殉じる事を求め、それこそが一番尊い行いだと言います。
創価学会も例外ではなく、永遠の指導者と定められている池田氏は、本部幹部会の同時中継などで、会員に対して「殉教」という事を求めた指導をしたのは既知の事です。
こんな事もあるからでしょう。公明党という政党の支持率はけして大きな変動はせず、常に2~3%台を安定的にキープ出来ています。創価学会の活動家からすれば、公明党の議席を維持する事が信仰の大義の一つであり、そこに疑念を差し挟む事は、宗教の「信じる事」を否定する事に通じるからなのです。
全くもって池田氏は、大した仕組みを構築したものです。先代の戸田会長が作った形を利用して、創価学会を宗教を骨格とした集票マシンシステムとしたのですから。
何故、宗教は信じる事を求めるのか。それはそこに説かれている内容が、けして日常の私たちの思考の範疇では理解出来ない内容であり、やはり「信じる」という思考無しには成り立たない事だという事もあるからではないか。現段階の私はその様に考えています。キリスト教でいう「創世記」の内容にしても、法華経の如来寿量品で説かれる久遠実成についても、これを今の科学の範疇で証明する事なんて出来ません。しかしその宗教を信仰するというのであれば、そこには「信じる」という前提無しには語る事すら出来なくなります。
さて、少し話は変わりますが、法華経には「以心得入」という言葉があります。これは法華経の信解品第三にある言葉ですが、以下に紹介します。
「斯の法華経は 深智の為に説く
浅識は之を聞いて 迷惑して解らず
一切の声聞 及び辟支仏は
此の教の中に於て 力及ばざる所なり
汝舎利弗 尚お此の経に於ては
信を以て入ることを得たり 況んや余の声聞をや
其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に
此の経に随順す 己が智分に非ず」
浅識は之を聞いて 迷惑して解らず
一切の声聞 及び辟支仏は
此の教の中に於て 力及ばざる所なり
汝舎利弗 尚お此の経に於ては
信を以て入ることを得たり 況んや余の声聞をや
其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に
此の経に随順す 己が智分に非ず」
ここでは法華経に説かれる内容は、奥底深く人智の届く処ではない。だから「法華経に説かれる事は真実である」と「信」を置かないと、この法華経の説く内容に入る事は出来ないと説かれています。これが「以信得入(信を以て入る事を得る)」という言葉です。
ここでも「信じる」という事が前提となっていますが、混同してはいけないのは、ここでいう「信じる」とは、より真実に近づく前提としての「信」であり、それはより、物事を理解する大前提の話をしていると私は理解しています。
西欧の哲学の基礎を作ったデカルトは、自著の「方法序説」において、全てを否定し否定し尽くしてもなお残る「自我」は否定できないとして、「我思う故に我あり」と結論づけました。大乗仏教においてはこの「自我」の奥底にある「心の姿」を理解する為に、法華経という経典を「信じる」という事を求めているのです。
詰まるところ、より理解し認識を深める為の「信」を述べた事が「以信得入」という四文字だと思うのです。
つらつらと考えている事を書いてみました。この内容はとても形而的であり、理解しづらいモノとなってしまいましたが、私が今回言いたかったことは、「信じるための宗教」は不要では無いかと言うことです。「信じる」というのは、精神的に人を無防備にしてしまいます。人は信じるものの為には無知となり、場合によっては残虐にもなつてしまいます。恐らく今の世の中の「宗教指導者」達は、この人間の持つ特性を理解し、人々を利用しているのではないでしょうか。
しかし一方で、人は「信じること無し」に生きていく事は出来ません。であれば本来、「信じる」という事を、より自分自身の思考の為の足場として、認識を深める為に用いるべきだと思います。
単に「信じるための宗教」から、人類は卒業すべき時なのかもしれませんね。