自燈明・法燈明の考察

この時代に立正安国論について考えてみた⑥

 立正安国論を読み返していますが、ここで一番大事な事と思うのは「日蓮に拘泥しない」という事でしょう。日蓮正宗では日蓮を「末法久遠の御本仏」と呼び、釈迦よりも「根源仏」として捉えています。また創価学会では近年になり、日蓮を「本仏」とは呼ばなくなりましたが、永遠の指導者の池田大作氏の言葉を「金言化」する為の裏付けの様に考えています。

 しかし考えても見て下さい。日蓮が生きた鎌倉時代は、現代とは比べ物にならない位に世界観は小さく、日蓮が当時参照出来た資料というのは現代に比較すると、極めて偏っています。何が偏っているかと言えば、彼の人が参照出来たのは、せいぜい当時の日本国内にある仏教関連の資料程しかなく、そこから紡ぎ出される考え方というのも、それ相応の範囲でしかありません。

 その日蓮の言葉を「御金言」として崇めたとして、それに縛られてしまっていては、結果として日蓮の言いたい事の本質を読み取れずに終わってしまうでしょう。日蓮の言葉を「換骨奪胎」するには、そういう彼の周囲の言葉を削ぎ落とし、その本質に「普遍的に残る言葉」を探していく以外、方法はないでしょう。私が「日蓮」と呼び、彼を「鎌倉時代の仏教僧」と呼ぶのも、そういう事を考えているからなのです。

 私は「日蓮正宗/創価学会/日蓮宗」の信者になりたいとは考えていません。ただ日蓮の語りたかった「志(こころざし)」について理解したいと思っています。信者になりたいとは思っていないので、こんな私の言葉に「大謗法の輩」とか「日蓮大聖人を軽賤しする仏敵」と思われても致し方ない事であり、そういう人は私の言葉を無視すれば良いだけなのです。

 そもそも人間以上の存在はなく、人間以下の存在もこの人類社会には存在する訳ありません。もしそんな存在(人間以上の存在)を造り出してしまったら、人々はその存在に依存する事はあっても、その人物の語りたかった本質に近づく事なんで出来ないでしょう。「信者」とはそういうものだと私は考えています。

 さて、少し話が脇道にそれましたので本題に入ります。

 日蓮は法然房源空を「仏教の極悪人」に仕立て上げました。しかし念仏宗の法然が産まれた時代、仏教は国家鎮護の修法であり、朝廷や公家など一部階級の専有物でした。その中で法然は人々の救いの教えとして弘教を始めた人物です。結果として人々はこの法然房源空の教えに縋りつき救いを得たいと考え、瞬く間に国内に念仏の教えは広まりました。そしてその結果、法然房源空は当時の朝廷や比叡山延暦寺、興福寺といった大寺院から讒訴され迫害されました。

 ある意味で日蓮の先駆けの様な存在でもある訳ですが、そんな法然房源空を日蓮が「仏教の極悪人」として指弾した理由には、当時の鎌倉仏教界の事情を理解する必要があるでしょう。ここで少し「忍性房良観」について考えてみる必要があります。

 忍性房良観について、日蓮を学ぶ人であれば多くの人は知っているでしょう。この人物は日蓮を生涯に渡り迫害した鎌倉仏教界の中心にいた人物です。

 良観は建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で、房名(通称)は良観。貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られています。しかし日蓮の御書の随所には幕府と結託し、日蓮を迫害した黒幕として書かれている人物です。

 貞永元年(1232年)死の床にあった母の懇願により、大和国額安寺に入って出家し官僧となったとあり、その後は奈良や京都で活動をしていました。これは日蓮が10歳の頃です。そして建長4年(1252年)本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸三村寺(御家人八田知家の知行所。現在は廃寺)を拠点に、当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固めました。この当時、日蓮は比叡山を下りて三井寺(円城寺)や東寺、仁和寺に修学している頃にあたります。

 正元元年(1259年)北条重時の招聘に応じ、鎌倉に隣接する極楽寺の寺地を移したと言いますが、この当時、日蓮は正嘉大地震にあい、駿河の実相寺にて一切経を閲覧、立正安国論の構想を深めている時にあたります。そして弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ進出したと言われています。ここで出てくる北条重時は、第二代執権の北条義時の孫にあたり、鎌倉幕府の重鎮として、良観と共に日蓮の弾圧のために中心的に動いた人物なのは周知の事実です。

 この忍性房良観が鎌倉で自身の立場を地固めしている時、日蓮は立正安国論認め最明寺入道時頼に上奏しました。そしてそれによって日蓮が松葉が谷を襲撃され、伊豆流罪にあった後(弘長2年(1262年))に、忍性房良観は鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が良観の師匠叡尊に帰依したことにより、実質的に鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となったのです。

 ここでポイントは、忍性房良観が鎌倉仏教界の中心者と成り得たのは、鎌倉在住の律僧や念仏僧の支持を取り付けた事で成り得たという事です。恐らく当時、念仏僧は多くの信徒を抱えた事を背景として鎌倉仏教界で強い立場を固めており、良観はその念仏僧の支持を得る事で、鎌倉仏教界の頂点に立てたという事です。

 前の記事、この時代に立正安国論について考えてみた④ - 自燈明・法燈明の考察に書きましたが、当時の鎌倉では京の都に負けない文化都市を作ろうという、幕府の宗教政策によって多くの僧侶が招聘され、多くの寺院が寄進されていました。それは正嘉の大地震や多くの飢饉、疫病がはびこる中でもこういった「公共事業」は止められる事なく進められ、鎌倉在住の仏教僧の多くはその利権に寄り掛かっていたのでしょう。そしてその中心には良観等がおり、念仏僧が多くいました。

 そういった現状を鑑みて日蓮は、本来ならば国家鎮護を真剣に祈り、多くの人達を救い導くという仏教本来の姿へ戻す事、また利権に泳ぐ念仏僧を中心とした僧を誡める事を求め、またそれを強力に推進している幕府を諫めるために、立正安国論を書き顕したのではないでしょうか。だから当時、鎌倉で権勢を誇っていた念仏宗を責める為に、この立正安国論では法然房源空を敢えて「極悪人」と呼んだのかもしれません。

 仏教本来の姿。これは日蓮が生きていた当時の事ですが、それを天台・伝教の教え、つまり比叡山延暦寺の教えでもありますが、そこに立ち返る事を求めたのが、立正安国論なのではありませんか?

 後に日蓮の弟子、伯耆坊日興が立正安国論写本で「天台沙門 日蓮」と書いていたのも、そういう事を表していると私は考えたのです。

 

 単に日蓮が自画自賛で、独善的排他的な教えを述べるものでは無かったと、私は考えているのです。


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