さて立正安国論に話を戻します。
日蓮が「経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す」と言った「正・悪」について書き連ねていきます。
日蓮正宗もそうですが、創価学会もこの「立正安国論」の講義集を出版しています。しかしいずれの講義集についても「我田引水」の内容で、自宗派の正統性を述べるだけの講義であり、何らこの立正安国論を換骨奪胎するに至っていません。これはとても残念な事です。
これでは日蓮が誤解されても致し方無いと言う事です。
立正安国論の中では、この「悪」の権現として「法然」を取り上げています、曰く。
「誰人を以て悪比丘と謂うや委細に聞かんと欲す。主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然と云うもの有り選択集を作る即ち一代の聖教を破し�く十方の衆生を迷わす」
この悪人の理由としては、法然の著した「選択集」では「法華経」について「或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし」として、本来、仏教の中では最重要の経典の法華経を蔑ろにして、多くの人を惑わした事によるんだと述べています。でも果たして日蓮の主張はそれだけだったんですかね。
ここで少しだけ法然について振り返りをしてみます。
法然とは法然房源空と言う名前で、長承2年(1133年)から建暦2年(1212年)、平安末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶で、若い時には比叡山延暦寺で天台宗の教学を学びますが、そこでは何も得られず、42歳の時に「観無量寿経」によって不可思議体験をしてから、専修念仏を行う新たな宗派「念仏宗」を開きます。法然は幼少の頃、父親を夜討ちによって殺害されましたが、父親の遺言で仇討を断念したと言われています。恐らく幼少時の強烈な経験から、死生観について深く考える様になり、比叡山に登り修学しても、そこで法然が求めた答えが得られなかったのでしょう。
平安時代末期は、僧侶が人々に仏教を弘教する事は禁止されていました。僧侶とは官僧であり、仏教を研鑽し、国家鎮護の為に各種の修法を行う事が役割であり、人々の間に仏教を広めるという事を行う立場ではありません。しかし社会は平家の台頭の頃から戦乱が多くなり、多くの庶民は苦しんでいました。また末法思想も語られる様になり、その中で難しい教えを理解せずとも、念仏を唱える事で極楽浄土へ行けるという念仏宗の教えは瞬く間に社会の中に広がっていきました。
鎌倉仏教とは、それまでの国家鎮護を中心とした貴族仏教から、庶民の中に広がった仏教の事を云いますが、法然房源空とはその先駆け的な存在であったと言えるのです。
日蓮は法然が選択集の中で法華経を軽んじた事を「悪」と呼び、その選択集を著作した法然は「悪人」だと言っています。しかし念仏そのものを否定している訳ではありません。何故なら日蓮の御書の中で「念仏無間」と呼んでいたのは、この法然の選択集による念仏であり、天台宗で行われている一心三観の念仏は否定をしていないのです。つまるところ、日蓮が責めていたのは「法華経を蔑ろにする心」を責めていたという事なのです。
立正安国論の中で、日蓮は法然房源空が時の朝廷などに責められた事を、法然が極悪の証拠である様に述べています。
「其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ其の門弟隆観聖光成覚薩生等は遠国に配流せらる、其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を進らせずと云わんや。」
しかしこれについて私は少し疑問を感じます。
ここでいう「延暦興福の両寺より」とは、念仏宗で呼ぶ「承元の法難」というもので、1207年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪となり、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件をいいます。これは延暦寺や興福寺という、当時、権力側にあった寺院が、念仏宗の急速な拡大により危機感を募らせ、朝廷に念仏宗への批判を書き連ね朝廷に奏上、朝廷としてこれら大寺院からの批判を無視できない事から発生した弾圧なのです。
この構図と同じ事が、その後の日蓮の身の上にも様々な法難として起きている事を考えてみれば、この立正安国論の部分については、日蓮は本来書き連ねてはいけない事だったのではないでしょうか。私はその様にも思えるのです。
つまるところ、日蓮が述べた「経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す」というのは、当時の天台宗仏教の筋目として、法華経を中心とした仏教と、それを破壊する思想を人々に広め、それを為政者側でも深く理解せずにそれら宗派の僧侶を重用し続けているという事を指摘していたと捉える事が妥当な事だと私は考えています。確かに立正安国論では念仏宗とその宗祖である法然房源空を「悪の根源」としていますが、それはこの事を相手に理解しやすい形で示す為の言葉と捉えるべきではないでしょうか。