自燈明・法燈明の考察

最近の選挙雑感

 今日は統一地方選挙の前半戦の投票日ですね。

 全国の創価学会の家族のうち、これまでの間、家人が家事を差し置き、仕事を差し置いて選挙に動き回っている家庭が多くあったのではないでしょうか。そして今日で終わりかと思いきや、後半戦もあるので、まだまだその家人は選挙で動き回る必要がある様です。

 本当に「お疲れ様」なこってすね。

 人生の時間なんて有限なものなんで、選挙以外にも広く様々な事に取り組んだ方が良いと思うし、仕事や家庭の事も沢山やる事があるのではありませんか?

 でもまあ、人はそれぞれの価値観で動くものなので、創価学会の価値観で人生を送る人は、それこそが「最上最高の人生の送り方」だと自負しているので、致し方ない事なのかもしれませんね。私の場合には、十数年前にその「カラクリ」に気付いてしまったんで、もうそんな事に大事な人生の時間を費やす意味が解らなくなったんで止めました。

 私は基本「テレワーク」なので、朝から晩まで仕事で用事が無い限り、自宅内にいるのが殆どです。この選挙の期間、自宅周辺を様々な政党の遊説車が徘徊して「〇〇党の●△■男です!よろしくお願いします!」なんて言葉を連呼しているのを、ずーっと聞いていましたが、それでふと思った事があります。

 選挙とはそもそも自身の政治信条に近い人を議会に送り、自分の持っている政治の権利を代行してもらうという「議会制民主主義」の考え方に基づいた事だと思うのですが、例えば「選挙公報」みても、多くの候補者は特筆なく、なべて似た事ばかりを並べ立てています。また遊説車はひたすら名前を連呼するだけです。

 これで一体、何を選べと言うのでしょうか。

 例えば駅頭演説を聞いたとして、こちらの意見を候補者に伝える事なんて出来ませんよね。では候補者が「タウンミーティング」なんてやって、地元有権者と政治の意見交換をするかと言えば、そんな事は殆どやっていません。そして知名度や地元の人脈(これが殆ど地縁によるもの)により当選しているのが、実際の選挙という事ですよね。

 名前は知っていても、その人物の政治信条の実態を、実は理解しないし理解させる仕組みもなく、今の日本では選挙を行っていませんか?だから選挙の期間になると、各候補者はひたすら名前を連呼し、「勝たせてください!!」なんて事をしているに過ぎない訳なのではありませんか?

 私が学生時代に学校で教わったのは、「地方自治体は民主主義の学校」だと教わりました。

 それは政治が国政よりも身近にあって、この地方政治によって、本来の民主主義の意義を理解できるものだと言う風に教わりました、でも実際には選挙近くになると候補者はひたすら「名前を連呼」して、有権者はそんな候補者の政治信条にあまりに無頓着で、あるとすれば地元利益誘導の話ばかりです。

 これでは日本の民主主義も機能不全に陥っても仕方ないですね。これは政治家たる候補者にも問題がありますが、その候補者を選ぶ有権者側にも問題があるという事なんでしょう。

 そこは考え直さなければならない事だと、私は感じてしまいました。

 次に創価学会と公明党の関係について。

 公明党の地方議員(これは国政の議員もそうですが)は、何期何年やっても組織の中で「激戦区」「超激戦区」が変わらない候補者が多くいますよね。これはつまるとこと政治家として何も働いていないという事と同義と言っても良いでしょう。

 私が昔「この人は凄いな」という男子部の先輩が、議員をしていましたが、その人は初出馬の時には組織票ギリギリで当選を果たしましたが、二期目以降は、独自の働きで数千票上乗せして、組織として「驀進区」となっていました。要は地元の他党の支援者の中でも「〇〇さんなら投票するし、支援するよ」という人が多く居て、それに組織票が乗っかるんで、常に上位当選していました。

 でもこういう議員って、公明党では希少な存在なんですね。多くの議員は何期何年やっていても、組織におんぶに抱っこでないと当選できないという議員が多く居ます。場合によっては何期やっても、やるたびに票を減らす議員もいたりします。

 恐らくこういう議員は、自分が努力しない場合、地元の組織の人達がどれだけ必死になって票を搔き集めているか、その労苦を理解できない人物なんでしょうね。まさしく「傲慢の極み」と言っても良いでしょう。そら組織なんてのは、信濃町あたりから「池田先生」という言葉や「功徳(御利益)」の話をすれば、馬車馬の様に走り回ります。彼らにとってはそれは「信仰の故の苦しみ」という甘美な感覚で動いているんでしょうが、その人物の周囲には家族や仕事の同僚、また選挙の度に投票依頼される友人なんて存在も居るわけで、そこに対してどれだけ「自分の政治的無能さ」が迷惑を掛けているのか、そういう想像力が著しく欠如していると言っても、あながち間違いではないでしょう。

 まあそもそも公明党の地方議員なんてのは、組織の中で中堅幹部以上をやっていて、信濃町の覚えめでたくて「お前は〇〇から立候補しろ!」と指示されて候補者となり、議員になっているので、こういった事すら理解できる感性は持ち合わせていません。また他党の候補の多くは「政治家になる!」という明確な意識で長年活動している中、候補者になっているのですが、公明党の地方議員の多くは、「(信濃町が教える)信心の世界」しか知らない状態で、候補者になる前の僅かな期間だけ「政治秘書」なんかを舐める程度で政治家になっているから、そんな感性を求めるのも無理があるというモノだと思いますけどね。

 日本の民主主義は、いま危機的状況になってきていますが、そんな風土を醸成してきてしまった原因の中に、こういった創価学会と公明党の政治活動があるのではありませんか?

 この事は創価学会の活動家幹部より、それ以外の国民に理解をして欲しい事だと思ったりしています。


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