ナラタージユ原作本 #ナラタージユ #松本潤

2016-07-17 21:59:52 | ナラタージユ

有難や有難や*\(^o^)/*
やっと、今日、大手の本屋さんで見つけまして
映画化、松本潤、有村架純のこの文字だけの帯で買うべきかどうか、一瞬考えたんですが、

はあ、次の瞬間、レジに並んでましたな*\(^o^)/*

ナラタージユという言葉が、

ナレーションとモンタージュを合わせた造語であるそうで

正直、演劇やら映画に詳しくないもんで、

はて、ラナタージュ?ナラタージユ?と、
言葉が巡ってましたな(^^;;


さて、卒直な読後感想。ネタバレは、あまり無い、、と思います。


この言葉をタイトルにした意味が、
最後の最後、まさに最終頁でわかった気がしました。
失礼ながら
こんな色気のない題名に興味がそそられなかったのも事実なんですが、
やっと、葉山の友人に語られた葉山の心を知った泉、この時の彼女にこのタイトルの意味がある。
と、私は解釈しました。


人は皆、過去の記憶を消すという行為が出来ずに生きていく。

消そうとしても消えない記憶と闘いながら生きていくのか、
あえて消そうせず、再生させながら喜びも他の感情とも付き合って生きいくのか。
いずれにしろ
懐かしく幸せな思い出なのか、苦く嫌なモノなのか、本人の主観の塊なのだ。

とりわけ、思春期から青年期の恋愛は、
最も鮮烈な跡を残す記憶、甘く懐かしいのと同じくらい、思い出したくない締め付けられるような苦しい思い出にもなる。

行貞監督がこの原作の映画化権を取ったというのは、泉というこの語り手の女の子を主役とするためか?だとすれば、これを演ずる女優さんは相当な演技力が必要なはず。
それも、年齢からいって、こなれた演技ではなく、経験する事全てが人生の初体験、という初々しさをもって、葉山を忘れられない心を観せなければならない。

今回の映画化は、松本潤主演という形で、
つまり、葉山貴司をもっとクローズアップして、泉から見た葉山だけでなく、葉山の主観的な部分も多くあるのか。
確かに、葉山の複雑な環境と思いを、松本潤がどんな風に繊細な表情で演じるのが楽しみである。

派手なアクションがあるわけではなく、静かな日常の中で、しかしながら、当の本人たちには毎日が苦しかったり、人間関係に気持ちをすり減らし生きている。
その中で、
どうしてもお互いを好きになってしまう、彼らのほんのわずかな蜜月をどう演出してくれるのか。
いつまでも彼女を、彼を大切に想い続けるであろう、けれどその気持ちは水面に出る事なく深く沈めているのに、時に溢れてしまう、
そんな激情の場面も、松本潤の目と、有村架純のやや恥ずかしそうな表情に期待したい。


原作の素晴らしい文は、特に、
葉山の体を語る泉の目、が印象的だった。

葉山が入院する時の、少しずつ触れる葉山の手や腕、
そして、
ただ一度彼の部屋に泊まるときの、
服を脱ぐ葉山を見る泉の描写といい、
こういう繊細な感じ方を
映像でどう感じさせるのか。

行貞監督の手腕が楽しみである。