金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文人とは

20万年前に生まれた現生人類は、旧石器時代にはこの地に到達していたようで、
4万年前頃には旧石器時代の遺跡が急激に増えることから、現代人につながる人々が少なくともその頃に日本で暮らしていたようだ。
この時期の遺跡発見は日本列島では2万件ぐらいあるのに対し、中国大陸では千であり、朝鮮半島は百にすぎないという。
彼らは後期旧石器時代の頃から自由に海を渡ることが出来たことが、黒曜石の分析で考古学的に証明されている。
縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統であることを意味するようで、延いては、縄文人ゲノムが現在のユーラシア大陸東部に住む人々のゲノム多様性を理解する鍵を握っていることを示しているという。

日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていたようです。

すなわち、中国大陸の新石器時代は日本列島の縄文人達の同族が居住して、自由に交流し、縄文文化にあった。また新石器時代の遺跡から縄文土器が出土しているという。

 長江中流域では、土器作りを伴う定住生活が、既にB.C.16,000年前に行われていたようです。この事実の確証が得られれば、日本の縄文土器文化の淵源が、またもや塗り換わります。

古代の倭人とは、縄文人、古代中国に在住した縄文人の同族(殷、秦、斉、羌族などが弥生時代末期以降の渡来人として来日する)、それに、揚子江(長江)中・下流域の水稲を作り始めた呉の太伯の末裔が日本列島に移住した人々などからなり、古代の原日本語を喋る人々を総称して倭人と呼んだと考えられるという。

      南からの八ヶ岳遠望   金生遺跡は中央辺りの森の陰の上方にある

金生遺跡を作った人々はこのような背景を持つ縄文人だったから、
何処までどのような広い交流を持っていたのでしょう、そして金生遺跡の八節の暦はその中でどのような位置に有ったものでしょうか。

  各種文献からの抄録に近いものから縄文人を探ってみました。

引用----
彼らは後期旧石器時代の頃から自由に海を渡ることが出来たことが黒曜石の分析で考古学的に証明されている(参考)。

・また紀元前4万年から1万年は旧石器時代とよばれるが、この時期の遺跡発見は日本列島では2万件ぐらいあるのに対し、中国大陸では千であり、朝鮮半島は百にすぎないという。

ハプログループD1a2は縄文人遺伝子
ハプログループDはマイケル・F・ハマーの仮説では「約3万年前に北方ルートで北海道に到着した」とされ、C1とDのいずれが先に日本列島に到達したのかは不明であるが、ハプログループD1a2は約3万年前に日本列島にて発生した型であって日本以外ではみられないことに注目。
…Y染色体ハプログループD1a2が父系の縄文人遺伝子であるとみなせば、世界最古の1万6500年前の縄文土器などが世界の中で日本でのみ出土しているという事実はこうしたY染色体ハプログループ解析という遺伝学によって導かれる結論に矛盾なくぴったりと一致しているのである。


 長江中流域では、土器作りを伴う定住生活が、既にB.C.16,000年前に行われていたようです。この事実の確証が得られれば、日本の縄文土器文化の淵源が、またもや塗り換わります。但し、定住生活といっても、山間丘陵地の洞窟だったようです。そして原始的な雑穀焼畑の1つとしての陸稲とみられますが、B.C.12,000年の遺跡で、その痕跡が検出されました。


3千余年前に倭人の記述が中国の史書に存在したこと、3065年前頃から興った周王朝の初期に倭人が朝貢した記述があること、春秋戦国時代末期の斉の文化と日本(倭)の文化がよく似ていること、揚子江(長江)中・下流域の河姆渡文化の稲作農民の末裔が日本列島に渡来して倭人になったこと、倭の文化が殷と秦にも関係があり、そして、秦が滅亡した漢代に東夷と呼ばれた国々は実は倭人が建てたであろうことを指摘している。
中国人科学者の断片的な理解ではあるが、倭人が日本列島どころか大陸にも存在したとの理解は重要である

日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。
この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。
その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化)して来たことになる。

殷人の末裔は滅びることなく日本列島に渡って来た
2019-08-11 10:00:53
テーマ:下関歴史
日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。

この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。

その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化)して来たことになる。
春秋戦国時代の末期の秦、斉、宋などの殷の末裔は、矢張り縄文人と同族でY-DNAハプログループD1b(旧分類D2)を持ち、日本語を喋っていた。https: //ameblo.jp/shimonose9m/entry-12503385529.html
日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。
この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。
その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化)して来たことになる。

秦の始皇帝、秦帝国の民(秦氏)、そして斉国人はY-DNAハプログループD2で、日本在住の縄文人と同族であった。また、揚子江下流域の稲作農耕民はY-DNAハプログループO2で、呉の太伯の末裔であり、日本に渡来して弥生時代を開いた。共に原日本語を喋り、日本列島に渡来して倭人と見做された。


縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。
旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。
この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴式住居に住んだ。縄文式土器については、青森県大平山元I遺跡にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁撈、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。


縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4~5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。


現在の漢民族(主にO3系統)のルーツの周が中原に侵入する紀元前1000年頃以前の中国大陸(新石器時代、紀元前7500から1500年前)には、秦の同族のルーツ(D系統、縄文人と同族)のほか、河姆渡文化(O2系統、呉・越系の稲作農民)、そして沿岸部の漁労民(C1)が居住していた(後の日本列島と同じ民族構成、参考)。
すなわち、中国大陸の新石器時代は日本列島の縄文人達の同族が居住して、自由に交流し、縄文文化にあった(参考)。以下の新石器時代の遺跡から縄文土器が出土している。


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