縄文時代のカレンダーの存在を示すもの
これまでの経緯
縄文時代には冬至日や夏至日を示すとする巨石建造物がある
そうしたものを建造するには、その背景としてカレンダーの存在が欠かせない
カレンダー無しにそんな巨大建造物が作れるとは考えられないからである
図 金生遺跡の立地地理と配石
1.山梨県北杜市にある金生遺跡では、
遺跡の立地そのものが、四方を山に囲まれていて、太陽暦に合わせて山のピークからの日の出が見える。
茅が岳のピークからの日の出が立春であり、
笠無山のピークからの日の出が立秋となることが分かっている。
このように太陽暦に合わせた立地が選定されていた。
この立春と立秋の正確な日付の確定には、配石内にある石棒とノーモン台により行われていたと推測できる遺構である
図 太陽こよみ 縄文時代の計算
2.太陽こよみは立春日一点を観測すれば確定できる、なのに立秋日を観測している
立秋を何故観測するのか。
それは月のこよみを太陽のこよみに正確に合わせるためである。
月は30日周期で変化する、それは正確で無く、実際は 29.5日となっている
このズレは半年もすれば 3日程の違いとなる
月の満ち欠けから日を決めているとすれば、いずれかの時点でこのズレを元に戻す必要がある。
太陽こよみの起点から考えると、半年ごとにズレを戻すとすれば、半年後は立秋とするのが好都合である
この時点で月齢を観測すればそこからの半年はまたズレを抑えることが出来る。
図 縄文時代のカレンダー 想定
こうして作られたと推測できるのは、月齢を曜日に当てはめて作ったカレンダーである
現在のカレンダーは、曜日も月の日数も月の運動とは何の関係も持たない。歴史過程により様々な外力が加えられ、ねじ曲げられて、月の存在を消し去ったカレンダーとされてしまった
月の日数を30日として、月齢を曜日で正確に合わせれば、ここに示すカレンダーが出来る
半月を15日とすれば、15/2 から 半月が 7+7+1となり、この 1を新月と満月に当てれば、
これで月齢を正確に表現できる。
これを曜日に当てはめれば月齢を、月火水木金土海日とすることができる
太陽のこよみと月のこよみとを区分を一致させて、シンクロさせるための工夫には
縄文時代には数千年の時が必要とされたようだ。
太陽のこよみは 45日の区分
月のこよみは 15日区分のこよみとなる
図 突起土器の年表 土器はメディアであり、太陽暦開発の歴史経過が数字として記録され、遺されていた。縄文時代中期には3突起の土器が現れ、二十四節気の暦が成立していたと考える。 2024.09.20追加記載
この区分を一致させるためには、45日/3 15日を知ることが必要である。
つまり太陽暦を15日区分のこよみとすることであり、これは二十四節気のこよみである。
二十四節気の暦は本来このために作られたものであることが分る
縄文時代のカレンダーは現代のカレンダーよりすぐれている
月は1ヶ月30日で朔望周期を再現する
太陽の暦は立春を 1月1日として編成すれば
現代のカレンダーのように、日付が年ごとに変動することは無くなる
4500年前のこよみ成立以後、日付は変動すること無く一定となる。
人間の勝手で歴史的に変形されてきたカレンダーを、太陽と月の運動に戻し
正確に合わせることが、自然をありのままに受け入れる最初の一歩では無いだろうか。