この遺跡は後期、晩期には衰えたと思われていた八ヶ岳山麓の縄文人の
消滅したとの定説を覆す遺跡だったといわれる。
周辺遺跡では廃絶状況があるにもかかわらず、この村は継続出来たようだ。
何故なのか、
これまでの祭祀施設という説明では、気候寒冷化に対抗し得たとは考えられないので、これほどの巨大配石遺構を形成した真の目的の理解なくして、この遺跡の価値は評価し得ないものと考える。
それはこの立地が何を意味するものかと言うことと、配石遺構が何を示しているのか。
その目的はこれまでの遺跡周囲の山岳の位置と日の出と日の入りの太陽観測によりほぼ解明できたものと考える。
立冬と立春を定点として太陽観測をする場所として、4000年前にここが見つけられ、
季節の正確な暦を作成するため住み始めた。山梨では縄文中期には二至二分の暦が生み出されていた、それを元にして四立を構想した者がいたのだろう。
そして世界に先駆けて太陽運行を観測して太陽暦を作る天文台となり、八節の暦を縄文社会へ提供したのだろう。
立冬以後、冬至の時期には、氷付く太陽の回復を祈る犠牲祭が配石で行われた、そして太陽の出る位置が山稜を登り始めて、太陽が回復してきた事を確認する立春の日の出位置を配石は指し示すと考える。